第62話 まだ人間の側
医療室は静かだった。
昼の光が差し込んでいる。
白い布。
薬の匂い。
整った空間。
その中で、一つだけ整っていないものがある。
「……で」
マルタがベッドの端に座っている。
包帯はまだ外れていない。
腕も、脇腹も。
「いつまで寝てりゃいいんだ」
不機嫌そうに言う。
「少なくとも、今はまだです」
即答。
エリアス。
すぐ近くに立っている。
「……動ける」
「動けることと、動いていいことは別です」
マルタが小さく舌打ちする。
「お前さ」
少しだけ睨む。
「言い方がいちいち気に食わない」
「それは申し訳ないですね」
まったく申し訳なさそうじゃない。
「……」
マルタはしばらく黙っていた。
それから、ゆっくりと立ち上がる。
少しだけふらつく。
でも、倒れない。
「……ほら」
「今のが答えです」
即座に返される。
「……うるせえな」
でも、完全には否定できない。
そのまま数歩歩く。
問題ない。
“今のところは”。
エリアスはそれを見ていた。
止めない。
ただ、観察していた。
少しの沈黙。
「……で」
マルタが口を開く。
「外、どうなってる」
「表面上は安定しています」
いつもの言い方。
「……表面上は、ね」
マルタが皮肉っぽく笑った。
「内部では?」
「未分類の報告が増えています」
淡々と続ける。
マルタの表情が少しだけ変わった。
「どんな」
「説明不能な違和感、といったところです」
「……は」
軽く笑う。
「一番めんどくせえやつじゃねえか」
「同意します」
エリアスは頷く。
マルタは腕を軽く回した。
痛みはある。
でも、動く。
「……出るぞ」
短く言う。
「却下します」
即答。
「……」
数秒。
睨み合い。
「……最低限の確認だけでも」
マルタが少しだけ譲る。
「現場の感覚が必要だろ」
「それは理解しています」
「じゃあ」
「あなたはまだその状態ではありません」
変わらない。
「……」
マルタが深くため息をついた。
「……ほんとにめんどくせえな」
「よく言われます」
そのやりとりを、少し離れたところから見ている影がある。
レオン。
壁にもたれている。
「……お前らさ」
ぽつりと言った。
「仲いいよな」
「よく言われます」
「言われねえよ」
マルタが即答する。
レオンは少しだけ笑った。
「……まあいいけど」
それ以上は突っ込まない。
少しだけ、空気が緩む。
ほんの一瞬。
そのとき、扉の向こうで音がした。
誰かの声。
小さく、聞き取れない。
エリアスの視線がわずかにそちらに向く。
「……どうした」
マルタが聞く。
「いえ」
エリアスは首を振る。
「問題ありません」
レオンが少しだけ眉をひそめた。
「……ほんとか?」
「はい」
それ以上は言わない。
そのまま、何事もなかったように空気が戻る。
静かな医療室。
日常の延長。
でも、ほんの少しだけ、ズレている。
医療室のさらに奥。
誰もいないはずの場所で、誰かがゆっくりと動いた気がした。
名前は、もう意味を持たない。
それでも、何かだけが残っている。
形だけのまま。
誰もそれを呼ばない。
呼べない。
だから、そこにあるだけのものとして、静かに残っている。




