第61話 まだ選ぶ
近い。
息がかかるほどに。
セラフィナの視界は揺れていた。
輪郭が滲む。
でも、目の前の存在だけは、妙にはっきり見える。
ユリウス。
何も変わらない顔で、ただ見ている。
逃げない。
避けない。
意味も分からないまま、そこにいる。
喉が焼ける。
空っぽのまま、何も満たされない。
手が動く。
反射みたいに。
伸びる。
その距離は、もうほとんどない。
触れれば、終わる。
簡単に、何もかも。
でも、その瞬間、指が止まった。
理解している。
これは、違う。
今のこれは、選んだものじゃない。
ただの、逃げ。
ゆっくりと、手を引いた。
「……来ないで」
小さく言う。
声はかすれている。
でも、はっきりと言う。
ユリウスは動かなかった。
言葉の意味を考える。
でも、離れない。
「……なんで」
ぽつりと言う。
「……ここにいるのよ」
責めるでもなく、ただの疑問として。
ユリウスは少しだけ首を傾げた。
「……分かんねえ」
正直に言う。
「気づいたら、戻ってた」
その答えに、セラフィナは一瞬だけ目を閉じる。
笑いそうになる。
でも、そんな余裕はない。
「……最悪」
小さく呟いた。
身体が揺れる。
立っているのが、やっとだ。
それでも、膝をつかない。
さっきとは違う。
今は、立っている。
視線を上げ、ユリウスを見る。
まっすぐに見る。
「……今じゃない」
はっきりと言った。
「……ちゃんと、選びたいから」
静かに続ける。
その言葉は、弱い。
でも、折れていない。
ユリウスはそれを聞いていた。
意味は、分からない。
でも、軽くは扱わない。
「……そうか」
それだけを短く返す。
それ以上は聞かない。
その温度が、少しだけ、救いになった。
横で、イレーネが静かに見ていた。
セラフィナは一瞬だけイレーネを見た。
“それでもいい”
あの言葉が、まだ残っている。
でも、ゆっくりと首を振った。
「……よくない」
はっきりと、今度は、少しだけ強く言う。
イレーネは何も言わない。
ただ、そのまま受け取る。
セラフィナはゆっくりと息を吐いた。
整わないまま、それでも、立っていた。
ユリウスへ視線を戻す。
「……だから」
小さく言う。
「……今日は、帰って」
ユリウスは少しだけ考える。
数秒だけ。
「……分かった」
理由は分からないまま。
でも、否定しない。
そのまま、背を向けた。
来たときと同じように。
足音が遠ざかっていく。
劇場の奥に、静けさが戻った。
セラフィナは動かない。
そのまま、立ち続ける。
身体は限界が近い。
でも、折れていない。
イレーネがぽつりと呟いた。
「……選ぶんだね」
セラフィナは少しだけ視線を落とした。
それから、小さく。
「……まだね」
かすかに、そう言った。




