第60話 戻る理由
離れたはずだった。
あの場所からは。
ユリウスは立ち止まった。
さっき通った路地の途中。
数分も経っていない。
距離も、そんなに離れていない。
「……なんだよ」
小さく呟いた。
胸の奥に、残っている。
あの感じが消えないまま。
「……気持ち悪いな」
正直な感想。
嫌なわけじゃない。
でも、落ち着かない。
戻る理由を少しだけ考える。
ない。
行く理由も、ない。
それでも、足が動いた。
来た道を、そのまま。
止める気は、なかった。
止める理由も、なかった。
さっき見た建物が、また見えてきた。
古い劇場。
暗いままの場所。
今度は、止まらない。
迷わない。
そのまま扉の前まで行く。
一瞬だけ、手が止まる。
さっきと同じ場所。
同じ距離。
でも、今度は違う。
扉を押した。
重い音が鳴り、ゆっくりと扉が開いた。
中は暗い。
静かで、空気が重い。
一歩、踏み入れると床がわずかに軋む。
そのまま進む。
奥へ。
理由はない。
ただ、止まらない。
視界の奥に、2つの影が見えた。
近づくにつれてはっきりしてくる。
一人は、座り込んでいる。
もう一人は、立っている。
足が止まった。
「……なにしてんの」
自然に声が出た。
セラフィナがゆっくりと顔を上げた。
呼吸は荒い。
明らかにいつもと違う。
ユリウスは何も言わずにそれを見ていた。
違う。
はっきりと。
でも、理由は分からない。
「……お前」
少しだけ眉をひそめる。
「どうした」
問いはシンプル。
セラフィナは答えない。
答えられない。
息を整えるので精一杯。
その様子を見て、ユリウスは少しだけ近づいた。
そのとき、もう一人に気づいた。
女が静かに立っていた。
こちらを見ている。
「……誰」
短く聞いた。
警戒は薄い。
でも、無関心でもない。
「イレーネ」
女はあっさりと答えた。
穏やかな声色。
ユリウスは少しだけ考える。
名前を聞いても、特に何も引っかからない。
「……そうか」
それだけ言った。
それ以上は聞かない。
ユリウスは再びセラフィナを見た。
近づく。
今度は、迷いなく。
「……ほんとに大丈夫か」
さっきより少しだけ低い声。
でも、変わらない温度。
セラフィナの視線が揺れた。
はっきりとユリウスを見た。
近い。
さっきよりも。
ずっと。
呼吸が重なる。
距離が、危険なほどに。
ユリウスは動かない。
逃げない。
避けない。
セラフィナの手が、わずかに動いた。
イレーネがそれを見ていた。
何も言わない。
止めない。
空気が張り詰める。
音が消える。
その中で、ユリウスだけが少しだけ首を傾げた。
「……なんだよ」
小さく言う。
いつも通りに。
それが、少しだけ、救いみたいに響いた。




