第59話 同じ側の温度
霧は戻ってきていた。
さっきよりも濃い。
劇場の中まで、ゆっくりと入り込んでいる。
イレーネは同じ場所に立っていた。
ほとんど動いていない。
視線の先は床に座り込んでいる影。
セラフィナ。
呼吸は荒い。
でも、壊れてはいない。
イレーネはそれを見ていた。
そこにあるものとして、ただ見ていた。
霧が、ゆっくりと流れる。
二人の間を通り、境界が曖昧になる。
少しだけ、懐かしい感じがした。
理由は分からない。
でも、似ている。
前にも、こんなことがあった気がする。
場所は違う。
時間も違う。
でも、似ている。
苦しんでいる誰か。
何もできないまま、見ている。
そのときは、もっとちゃんとしようと思った。
選ぼうとした。
助ける方を。
壊さない方を。
でも、うまくいかなかった。
全部、失敗した。
だから、今はもう、選ばない。
視線を少しだけ下げる。
セラフィナの手が震えている。
近づこうとは思わない。
離れようとも思わない。
そのままでいい気がする。
霧が濃くなった。
視界が少しだけぼやける。
でも、困らない。
このくらいの方が、ちょうどいい。
はっきりしすぎない方が、楽だから。
もう一度セラフィナを見た。
さっきよりも、少しだけ近い感覚で。
少しだけ似ている。
でも、違う。
あの人は、ちゃんと止まれる。
自分で。
イレーネは目を細めた。
ほんの少しだけ。
「……いいな」
ぽつりと誰にも聞こえない声で呟いた。
羨ましいのかどうかは、分からない。
でも、悪くないと思った。
そのとき、ふと、別の方向に視線が向く。
劇場の外。
壁の向こう。
何かが、遠ざかっていく感じ。
誰か。
名前は分からない。
でも、同じ側じゃない。
少しだけ考える。
追うかどうか。
意味があるかどうか。
でもすぐにやめた。
どうでもいい。
霧は静かに流れる。
何も決めないまま、何も変えないまま、ただ、そこにあるものをそのままにして。




