第6話 境界の外側
夜は静かだった。
昼間よりも、むしろ整っているように感じる。
灯りは一定の間隔で並び、人の数は減り音も少ない。
それでも、完全に無音ではない。
遠くで扉が閉まる音。
誰かの足音。
低く交わされる声。
それらがすべて、抑えられている。
ユリウスは外壁に沿って歩いていた。
夜の空気は冷たい。
霧は薄く、視界は昼よりもはっきりしている。
それでも、遠くはやはりぼやけていた。
「……夜に出るとは思わなかったな」
隣でレオンが言う。
声は小さい。
周囲に溶けるような音量だった。
「昼と何が違う」
「色々違うだろ」
曖昧な答えだった。
「まあ、そのうち分かる」
それ以上は説明しない。
いつもの調子だった。
少し前をマルタが歩いている。
歩幅は一定。
視線は前と周囲を交互に捉えている。
無駄がない。
それでいて、緊張しているようにも見えない。
「見回りって、毎晩やってるのか」
ユリウスが聞く。
「必要なときだけだ」
マルタが答える。
「今日は?」
「必要だからやってる」
それで会話は終わった。
風が吹く。
冷たい空気が肌を撫でる。
そのとき、ほんのわずかに匂いが混じった。
鉄の匂い。
昨日も感じたもの。
ユリウスは足を止める。
「……何かあるな」
低く言う。
マルタはすでに気づいていたらしい。
足を止めることなく、進路を変える。
「こっちだ」
短く言う。
教会の外壁から少し離れる。
細い通りに入る。
昼間見た路地とは違う。
人の出入りはある。
だが、今は誰もいない。
音もない。
ただ、空気が重い。
奥へ進む。
灯りが一つ、途切れている。
その手前で、影が揺れた。
「……いたぞ」
レオンが呟く。
そこに、人が倒れていた。
男だった。
衣服は教会のものに近い。
関係者か、それに近い立場の人間。
呼吸はある。
だが、浅い。
腕に傷がある。
血はそこまで多くない。
それでも、匂いははっきりしていた。
「噛まれてるな」
マルタがしゃがみ込む。
傷口を確認する。
その動きに、迷いはない。
「昨日と同じか」
レオンが言う。
「違う」
即答だった。
「血の量が少ない」
「じゃあ」
「分からない」
短く切る。
男が小さく呻く。
目が開く。
焦点は揺れている。
「……た、す……」
言葉にならない声。
ユリウスは一歩近づく。
昨日と同じ光景。
それでも、少し違う。
まだ、意識がある。
まだ、人間のままだ。
「運ぶか」
レオンが言う。
「運ぶ」
マルタは頷く。
「この距離なら間に合う」
二人が男に手をかける。
そのときだった。
風が、止まった。
不自然なほど、ぴたりと。
空気が変わる。
音が消える。
ユリウスの背筋に冷たいものが走る。
「……待て」
思わず口に出る。
理由は分からない。
ただ、何かがおかしい。
その違和感が、言葉より先に出た。
マルタがわずかに動きを止める。
「どうした」
「……今、何か――」
言い終わる前に、影が動いた。
人の形をしている。
だが、その動きは滑らかすぎた。
音がない。
気配だけが、そこにある。
次の瞬間、男の身体が引きずられるように後ろへ動く。
「――!」
レオンが手を離す。
マルタが一歩前に出る。
刃を抜く。
影は、すぐには離れなかった。
男の首元に顔を寄せる。
その動きは、あまりにも自然だった。
吸う。
音はしない。
それでも、それと分かる動き。
ユリウスの視界が一瞬だけ歪む。
そのとき、顔が見えた。
白い肌。
整いすぎた輪郭。
そして、わずかに細められた目。
美しい、と。
そう思った。
理由もなく。
ただ、そう見えた。
「離れろ!」
マルタの声が響く。
刃が振られる。
影は、軽く身を引いた。
まるで最初からそこにいなかったみたいに。
距離を取る。
霧の中に、輪郭が溶ける。
一瞬だけ、視線が合った気がした。
意味は分からない。
ただ、こちらを見ていると、分かるだけの何か。
次の瞬間、姿は消えていた。
完全に。
音もなく。
「……くそ」
レオンが舌打ちする。
「今の、なんだよ」
「……吸血鬼だ」
マルタが低く言う。
それだけだった。
説明はない。
必要もないように聞こえた。
男の身体が、力を失っている。
さっきまであった呼吸が、もうない。
「……間に合わなかったか」
レオンが呟く。
マルタは何も答えない。
ただ、男の状態を確認する。
そして、
「……終わりだ」
短く言う。
それ以上の処理はしなかった。
必要がないからだと分かる。
ユリウスは動かなかった。
さっき見たものを、うまく整理できない。
ただ、ひとつだけ残る。
――美しかった。
その感覚だけが、妙に鮮明だった。
「戻るぞ」
マルタが立ち上がる。
声に揺れはない。
いつも通りだった。
レオンもそれ以上何も言わない。
三人で来た道を戻る。
空気は元に戻っている。
音も、匂いも、さっきまでと同じだった。
教会の灯りが見えてくる。
その白さが、やけに遠く感じた。
「……見たか」
レオンが小さく言う。
ユリウスは少しだけ間を置く。
「……ああ」
「どう思った」
答えは、すぐには出なかった。
言葉にするのが、少しだけ怖かった。
それでも、
「……分からない」
それだけ言う。
レオンは小さく息を吐いた。
「だろうな」
それ以上は何も言わなかった。
教会の扉をくぐる。
静けさが戻る。
何も変わっていない。
さっきの出来事がまるで別の場所で起きたみたいに感じる。
ユリウスは立ち止まる。
振り返る。
霧の向こうに、何かがいる気がした。
確かめることはできない。
ただ、そこにあるような気がするだけ。
やがて、視線を外す。
何も言わずに歩き出す。
そのとき、はっきりと分かった。
――もう、見てしまった。
何を、とは言わない。
言えない。
ただ、引き返せない場所まで来ていると、それだけが、確かだった。




