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第5話 美しいもの

 その日は、街に出る理由がなかった。


 任された仕事もなく、呼ばれることもない。


 教会の中は変わらず静かで整っていた。



 ユリウスは一人で外に出た。


 理由は特にない。


 ただ、外の空気を吸いたいと思っただけだった。



 霧は、薄い。


 昼の光も、少しだけ強い。


 それでも、遠くはぼやけたままだった。



 通りを歩く。


 人の流れは穏やかだった。


 昨日と同じような光景。


 それが、少しだけ違って見える。


 理由は分からない。


 ただ、どこか一歩引いた場所で見ているような感覚があった。


 店先に目を向ける。


 果物が並んでいる。


 布が揺れている。


 誰かが笑っている。


 どれも普通だった。


 そのはずなのに、なぜか現実感が薄い。


 ――どこまでが、本当なんだろうな。


 そんなことを考えたときだった。



「あら」


 声がした。


 すぐ近くからだった。


 振り向く。


 そこに、女が立っていた。


 いつからいたのか分からない。


 音もなかった。


 ただ、気づいたときにはそこにいた。



「見ない顔ね」


 柔らかな声だった。


 聞き取りやすい。


 どこか心地いい響き。


 ユリウスは少しだけ言葉を選ぶ。


「……そうだな」


「旅の方?」


「そんなところだ」


「そう」


 女は小さく頷く。


 それだけの動作なのに、妙に印象に残る。


 距離感が近いわけではない。


 触れられそうな位置でもない。


 それでも、意識がそちらに引かれる。


 目を逸らす理由が見つからなかった。



「ここは、好き?」


 唐突な問いだった。


「……分からない」


 正直に答える。


 女はわずかに笑った。


「いい答えね」


 どこか楽しそうだった。


「分かった気になっている人より、ずっといい」


 似たような言葉を、少し前に聞いた気がした。


 誰だったかは思い出さない。


 思い出そうとも思わなかった。



「でも」


 女は続ける。


「ここは、美しい場所よ」


 視線を少しだけずらす。


 街の奥を見ているようだった。


「壊れているものほど、美しく見えることもある」


 静かな声だった。


 押しつけるわけでもなく、ただ、そう思っていると分かるだけの言い方。


 ユリウスは少しだけ考える。


「……そういうものか」


「ええ」


 あっさりと頷く。


「あなたはどう思う?」


「まだ分からない」


「そう」


 女は満足そうに目を細めた。


 それ以上は何も言わない。


 沈黙が落ちる。


 不自然ではなかった。


 むしろ、心地よいくらいだった。



 風が吹く。


 霧がわずかに揺れる。


 女の髪が、ゆっくりと動く。


 光を受けて、色が変わる。


 金に近い。


 その色だけが、妙に鮮明だった。



「名前は?」


 女が聞く。


「ユリウス」


「そう」


 短く繰り返す。


「いい名前ね」


 軽く言う。


 重みはない。


 それでも、どこか引っかかる。


「あなたは?」


 ユリウスが聞く。



 女は少しだけ間を置いた。


 考えているようにも、選んでいるようにも見える。


「……好きに呼んでいいわ」


 曖昧な返答だった。


「名前なんて、そんなに大事なものでもないでしょう?」


 軽く笑う。


 その言い方は、どこか現実から浮いていた。


 ユリウスはそれ以上聞かなかった。


 聞いても意味がない気がした。



「教会にいるの?」


 女が聞く。


「ああ」


「そう」


 ほんの少しだけ、表情が変わる。


 何が変わったのかは分からない。


 ただ、さっきまでと同じではない気がした。



「いい場所だと思う?」


「……分からない」


「そう答えると思った」


 小さく笑う。


 否定でも肯定でもない。


 ただ、予想していたというだけの反応。


「まあ、いいわ」


 女は視線を外す。


 それだけで、空気が少し変わる。


「また会いましょう」


 軽く言う。


 約束のようで、約束ではない言い方だった。


 ユリウスが何かを返す前に女は一歩後ろへ下がる。


 人の流れの中に紛れる。


 視界が遮られる。


 次の瞬間には、もう見えなかった。




 ユリウスはしばらくその場に立っていた。


 追うこともできたはずだった。


 けれど、足は動かなかった。


 理由は分からない。


 ただ、動くべきじゃない気がした。



「……何してんだ」


 背後から声がする。


 振り向くと、レオンがいた。


「ぼーっとしてただろ」


「……そう見えたか」


「見えた」


 レオンは少しだけ周囲を見回す。


「誰かと話してなかったか」


 ユリウスは一瞬だけ黙る。


「……気のせいじゃないのか」


「かもな」


 あっさりと流す。


 それ以上は追及しない。


 その軽さが、少しだけ気になった。



「戻るか」


 レオンが言う。


「夕方になる前に」


「ああ」


 ユリウスは頷く。



 教会へ向かう。


 さっきまでいた場所を、通り過ぎる。


 もう、何も残っていない。


 最初から、何もなかったみたいに。


 それでも、ほんのわずかに、何かが引っかかる。


 言葉にできない違和感。


 形にならないまま、ただそこにある。


 ユリウスはそれを考えようとして、やめた。


 考えても意味がない気がした。


 それでも、完全には消えなかった。




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