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第4話 静かな場所

 朝は、驚くほど静かだった。


 目が覚めたとき、しばらくそれに気づかなかった。


 音がない。


 いや、正確にはある。


 人の動く気配も、遠くの話し声も、確かに存在している。


 それでも、それらはすべて抑えられているように感じた。



 ユリウスはベッドから身体を起こした。


 昨日のことを思い出そうとする。


 うまく繋がらない。


 断片だけが浮かぶ。


 白い部屋。


 静かな声。


 路地の血の匂い。


 どれも現実だったはずなのに、少しだけ遠い。



 窓を開ける。


 霧は、昨日よりもさらに薄くなっていた。


 街の輪郭がぼんやりと見える。


 それでも、はっきりとはしない。


 ここに来てから、一度も完全に晴れたことはなかった。




 廊下に出た。


 すでに人は動いている。


 すれ違う者たちは軽く会釈をする。


 言葉は交わさない。


 必要なことだけを無駄なく行っているように見えた。


 食堂へ向かう。



 扉を開けると、すでに何人かが席についていた。


 静かな食事だった。


 食器の触れ合う音だけが、規則的に響く。


 誰も騒がない。


 誰も急がない。


 それぞれが決められた速度で動いているように見えた。



「遅えな」


 声がして、視線を向ける。


 レオンが手を上げていた。


 すでに食べ終わりかけている。


「普通だろ」


「この中じゃ遅いほうだな」


 軽く笑う。


 ユリウスは向かいの席に座る。


 用意されていた食事に手をつける。


 味は普通だった。


 特別美味いわけでも、不味いわけでもない。


 ただ、必要な分だけ用意されている。



「慣れたか?」


 レオンが言う。


「何に」


「ここに」


 曖昧な問いだった。


 それでも意味は分かる。


「……分からない」


 ユリウスは正直に答える。


 レオンは少しだけ目を細めた。


「いい答えだな」


「そうか?」


「分かった気になってるやつは、大体ろくなことにならねえ」


 軽い口調だった。


 けれど、その言葉だけ少し重かった。


「じゃあ、あんたはどうなんだ」


「俺か?」


 レオンは少しだけ考える素振りを見せる。


「分かってることもあるし、分かってねえこともある」


「曖昧だな」


「ここはそういう場所だよ」


 あっさりと言う。


 それ以上は続けなかった。


 食事を終える。


 周囲の人間も、同じタイミングで席を立っていく。


 合図があったわけではない。


 それでも、流れは揃っていた。



 食堂を出る。


 廊下を歩く。


 昨日と同じはずの場所なのに、少しだけ違って見えた。


 理由は分からない。


 ただ、視線の動き方が変わった気がした。



「おや」


 声がかかる。


 振り向くと、細身の青年が立っていた。


 年はレオンと同じくらいか、それより少し下。


 どこか柔らかい印象を受ける顔立ち。


 だが、その目だけは落ち着いていた。


「新しい顔ですね」


 柔らかく笑う。


「……まあ」


 ユリウスが答える。


「ユリウスだ」


「ノアです」


 軽く手を上げる。


 距離の取り方がうまい。


 踏み込みすぎず、離れすぎない。



「どうですか、この場所は」


 自然な口調で聞いてくる。


「まだ分からない」


「そうでしょうね」


 あっさりと頷く。


「分からないままのほうが、楽なことも多いですよ」


 冗談のような言い方だった。


 だが、どこか本気にも聞こえる。


「ここは守られてますから」


 続ける。


「外よりは、ずっと安全です」


「……そうか」


「ええ」


 迷いのない声だった。


 レオンが横で小さく鼻を鳴らす。


「言うねえ」


「事実でしょう?」


 ノアは微笑む。


 その笑みは崩れない。


 少しだけ長く見ていると、何かが引っかかる。


 理由は分からない。


 ただ、ほんのわずかな違和感だけが残る。



「まあ、無理に分かろうとしなくていいと思いますよ」


 ノアは軽く肩をすくめる。


「そのうち、嫌でも分かりますから」


 その言葉に、ユリウスは何も返さなかった。


 返す言葉が思いつかなかったわけではない。


 ただ、どれも違う気がした。


 ノアはそれ以上何も言わず、その場を離れていく。


 足音は軽い。


 振り返ることもない。




「……どう思う」


 レオンがぼそりと言う。


「何が」


「あいつ」


 少しだけ考える。


「普通に見える」


「だろうな」


 レオンは小さく笑う。


「まあ、そういうやつだよ」


 それ以上は言わない。


 ユリウスも追及しなかった。




 廊下を抜けて外に出る。


 昼の光は弱い。


 それでも、昨日よりは街が見える。


 人の動きも分かる。


 店先で話す声。


 荷物を運ぶ音。


 どこにでもあるような光景だった。



「……普通だな」


 思わず口に出る。


「そう見えるようにできてるからな」


 レオンが言う。


「そう見えなかったら、人は住まねえよ」


 納得はできる。


 だが、それだけでは足りない気もした。



 ユリウスはしばらく街を見ていた。


 動きはある。


 生活もある。


 それでも、どこか一歩引いたところで成り立っているように見える。


 関わりすぎない。


 深入りしない。


 そういう距離感。



「……慣れたくないな」


 ぽつりと呟く。


 レオンが横目で見る。


「何に」


「こういうのに」


 言葉にすると、少しだけはっきりする。


 エリアスの静けさ。


 マルタの速さ。


 レオンの軽さ。


 どれも、この街では自然に見える。


「そのうち慣れる」


 レオンが言う。


 あまりにも簡単に。


「慣れたくなくてもな」


「……そうか」


「そういう場所だ」


 それで終わりだった。


 ユリウスはそれ以上何も言わなかった。


 言葉にしてしまうと、何かが決まってしまう気がした。




 しばらくして、教会へ戻る。


 扉をくぐる。


 空気が少しだけ変わる。


 静けさが戻る。


 それを、違和感として感じるかどうか。


 少しだけ迷って、やめる。


 考えること自体をやめた。


 そのほうが楽だと思った。



 ふと、視線を上げる。


 二階の回廊に、人影が見えた気がした。


 長い髪。


 淡い色。


 誰かが立っている。


 こちらを見ているような気もする。



 瞬きをする。


 もう一度見る。


 そこには誰もいなかった。


 最初から何もなかったみたいに、空間だけが残っている。



 ユリウスはしばらくそこを見ていた。


 理由は分からない。


 ただ、目を離すタイミングが分からなかった。


 やがて、視線を落とす。


 何も言わずに歩き出す。



 そのとき、ほんのわずかに思った。


 ――このままここにいれば、きっと、自分も同じになる。


 何に、とは考えなかった。


 考えなくても分かる気がしたからだ。


 そして、その感覚を、少しだけ、拒みきれなかった。





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