表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/49

第3話 夜に近い者

 教会の外に出たとき、空気が少しだけ軽くなった気がした。


 それでも、胸の奥に残った感覚は消えない。


 あの部屋の静けさも、エリアスの声も、まだ耳の奥に残っていた。


 ユリウスは何も言わずに石段を下りる。


 昼間の光は薄かった。


 霧が、まだ街のあちこちに残っている。



「……そんな顔すると思った」


 横から声がした。


 振り向くと、レオンが壁にもたれかかっていた。


 最初からそこにいたような顔をしている。


「立ち聞きか」


「人聞き悪いな。待ってただけだよ」


 軽く肩をすくめる。


「どうだった、エリアスの案内」


「丁寧だった」


「だろ」


「……丁寧すぎるくらいにな」



 レオンは小さく笑った。


 その反応が、妙に気に障る。


「何がおかしい」


「別に。だいたい最初はそういう感想になるってだけだ」


 ユリウスは少しだけ眉を寄せた。


「最初?」


「“ああいうの”見せられたあとって、大体みんな同じ顔する」


「見せられた、って言い方なんだな」


 レオンは少しだけ視線を逸らす。


「……見せたんだろ、あいつなりに」


 それ以上は言わない。


 けれど、その一言で十分だった。



 ユリウスは小さく息を吐く。


「エリアスは、あれを当然のこととしてやってる」


「そうだな」


「迷いもない」


「そうだな」


「なのに、嫌な感じはしない」


「するほうが珍しいんじゃねえの」


 あっさりした返答だった。


「嫌な感じがしたら、あいつはもっと楽だよ」


 その言い方だけ、少しだけ乾いていた。


 ユリウスは何も返さない。


 レオンも深追いはしなかった。



「で、どうする」


「何が」


「今さら逃げるかって話」


 相変わらず軽い口調だった。


 けれど、どこか本気が混じっている。


「引き返すなら、まだ今のうちだぞ」


「……親切だな」


「そうでもない」


 レオンは肩をすくめた。


「面倒になる前に帰れるやつは、帰っといたほうがいいってだけだ」


「面倒になるのか」


「なるだろ。この街に長くいたら」


 あまりにも自然に言うものだから、冗談に聞こえなかった。


 ユリウスは教会の扉を振り返る。


 白い壁も、整えられた窓も、何ひとつ乱れていない。


 中で起きていることを知らなければ、ただ静かで美しい建物にしか見えない。



「……あんたは、どうしてここにいる」


 ふと、口にしていた。


 レオンは少しだけ目を細める。


「急だな」


「答えたくないならいい」


「いや」


 レオンは壁から身体を離した。


「別に、隠すほどのことでもねえよ」


 そう言って、少しだけ空を見る。


 霧越しの空は、色が薄い。


「ここにいると、生きるのが楽なんだよ」


 言葉は軽かった。


 けれど、妙に引っかかる。


「外にいた頃よりは、ずっとな」


「それだけか」


「十分だろ」


 レオンは笑う。


 笑っているのに、目が笑っていない。


 ユリウスはその顔を少しだけ見た。


 これ以上聞くべきじゃない気がして、口をつぐむ。



「まあ、そういうわけで」


 レオンが話を切る。


「今日は教会の中だけ見て終わり、って感じでもないんだろ?」


「……そうだな」


「だろうと思った」


 最初から分かっていたみたいな言い方だった。




 そのときだった。


 通路の向こうから、硬い靴音が近づいてくる。


 一定の速さで、迷いなく。



 レオンがそちらを見る。


「げ」


 小さく呟いた。


「なんだ」


「面倒なのが来た」


 そう言い終わるより先に、女が姿を現した。


 短く切った髪。


 細身で無駄のない身体。


 歩き方に迷いがなく、足音さえ整っている。


 ユリウスはひと目で分かった。


 この女は、戦うために動く人間だ。



「レオン」


 女は名前を呼ぶ。


 それだけで十分だったらしい。


 レオンは面倒そうに片手を上げる。


「よう、マルタ」


「よう、じゃない」


 低い声だった。


 冷たいというより、無駄がない。


「司祭長が探してる」


「今行くよ」


「後でいい。今は外だ」


 レオンはわざとらしくため息をつく。



「ほら、こういうやつ」


 ユリウスにだけ聞こえるように言う。


 マルタはちらりとこちらへ視線を向けた。


「新入りか」


 それは質問の形をしていたが確認に近かった。


「まあ、そんなとこ」


 レオンが代わりに答える。


「ユリウス。昨夜来た」


「そう」


 それだけ言って興味をなくすかと思ったが、マルタはもう一度ユリウスを見る。


 値踏みするような目ではない。


 ただ、必要な情報だけを拾う視線だった。


「歩けるか」


「……歩けるけど」


「なら来い」


「は?」


 思わず声が出る。


 マルタは表情ひとつ変えない。


「見回りに出る。人手が足りない」


「俺まで数に入れてんのかよ」


 レオンが呆れたように言う。


「入れてる」


「勝手だな」


「いつものことだろ」


 あまりにも当然の顔で言うものだから、レオンもそれ以上は何も返さなかった。



 ユリウスは二人を見比べる。


「外に出るのか」


「夜になる前に戻る」


 マルタが言う。


「何かあっても、その時間ならまだ対処できる」


「何か、ってなんだ」


「いちいち言わせるな」


 それだけだった。


 だが、十分だった。



 レオンが小さく肩をすくめる。


「まあ、行ってみりゃ分かる」


 ユリウスは少しだけ考えた。


 断る理由はある。


 だが、ここで引いたら何も見えない気がした。


「……分かった」


「賢明だな」


 レオンが皮肉っぽく言う。


「褒めてねえだろ、それ」


「褒めてるように聞こえたなら重症だな」


 マルタは二人のやりとりを気にも留めないまま歩き出していた。


 振り返りもしない。


 ついてくる前提の歩き方だった。




 教会を出る。


 街の空気が変わる。


 昼間だというのに、路地にはもう薄暗さが落ち始めていた。


 通りには人がいる。


 店も開いている。


 それでも、どこか急いでいるような歩き方をしていた。


 長居をしない。


 誰も立ち止まらない。



「この街の人間は、日が落ちるのを嫌う」


 歩きながら、レオンがぼそりと言う。


「嫌うっていうか、知ってるんだよ。遅くなるとろくなことにならねえって」


「それを守ってるのが教会か」


「そういうことになってる」


 その言い方が少しだけ引っかかった。


 だが、問い返す前にマルタが立ち止まる。



 路地の入口だった。


 細く、影の濃い道。


 昼間でも先が見えづらい。


「この先だ」


「何があった」


 レオンが聞く。


「通報。人が倒れてる」


 マルタは短く答える。


「目撃者は他にいない。血痕あり」


「景気悪いな」


 レオンの口調は相変わらず軽い。


 けれど、その目はもう笑っていなかった。



 三人で路地に入る。


 空気が湿る。


 土と鉄の匂いが混じる。


 奥へ進むにつれて、周囲の音が遠くなっていった。



 やがて、人影が見える。


 壁にもたれかかるように男が一人座り込んでいた。


 まだ若い。


 顔色は悪いが、意識はあるらしい。


 こちらに気づくと、かすかに顔を上げた。


「……たす、け……」


 途切れがちな声だった。


 腕に傷がある。


 浅いように見える。


 血もそれほど多くはない。



「軽いな」


 レオンが言う。


「噛まれてから、そんなに経ってねえかも」


 マルタは答えず、男のそばにしゃがみ込んだ。


 傷口を見る。


 血の匂いを確かめるみたいに、わずかに顔を寄せる。


「……噛み痕だな」


「助かるのか」


 ユリウスが聞く。


 マルタは少しだけ顔を上げる。


「分からない」


 はっきりした声だった。


「分からない、って」


「見れば分かるものじゃない」


 マルタは男の顎を軽く持ち上げた。


 目を見る。


 呼吸を見る。


 脈を取る。


 その手つきに、迷いはなかった。


「血はあまり失ってない。けど唾液の影響がどこまで入ってるかは不明」


「じゃあ教会に運べば――」


「間に合えばな」


 遮るように言う。


「でも間に合わないかもしれない」



 男が苦しそうに身を捩る。


 声にならない呻きが漏れる。


 ユリウスは思わず一歩前に出た。


「まだ生きてるだろ」


「見れば分かる」


「なら」


「だから厄介なんだよ」


 初めて、マルタの声にわずかな苛立ちが混じった。


 それでも大きくはならない。


「こういうのは、一番判断が面倒なんだ」


 立ち上がる。


 男はもう、こちらをちゃんと見ていなかった。


 焦点が揺れている。



「運ぶ」


 マルタが言う。


「生きてるうちはな」


「うわ、優しい」


 レオンがぼそりと茶化す。


 マルタは無視した。


「レオン、肩貸せ」


「はいはい」


 二人で男を抱え上げる。



 そのときだった。


 男の身体が、不自然に震えた。


 次の瞬間、喉の奥から低い唸り声が漏れる。


 ユリウスの背筋が冷たくなる。


 空気が変わった。



「下がれ」


 マルタが短く言う。


 レオンはすぐに手を離した。


 男の身体が地面に崩れる。


 そのまま、四肢が痙攣するように動いた。


 目が開く。


 焦点はない。


 さっきまでの人間の顔ではなかった。



「……早すぎるだろ」


 レオンの声が低くなる。


「血を与えられたな」


 マルタはすでに剣を抜いていた。


 短い刃。


 教会で見たものと同じ形だが、刃の表面がわずかに白く光っている。


「ユリウス」


 レオンが呼ぶ。


「近づくなよ」


 男だったものが、こちらに飛びかかる。


 速い。


 人間の動きじゃない。



 次の瞬間、マルタが一歩前に出る。


 動きに無駄がない。


 迎え撃つのではなく、最短で潰す動きだった。


 刃が閃く。



 乾いた音。



 男の身体が横に流れるように崩れる。


 それでもなお動こうとする。


 マルタは表情ひとつ変えずに距離を詰め、喉元へ刃を突き立てた。


 今度こそ動きが止まる。



 静かになった路地に、呼吸音だけが残る。


「……終わり」


 マルタは短く言って、刃を引き抜いた。


 血を払う動作も無駄がない。



 ユリウスは何も言えなかった。


 目の前で起きたことを、うまく言葉にできない。


 助けると言った直後に、殺した。


 けれど、そこに矛盾がないように見えてしまう。



「こういうのがあるから、迷ってる時間が嫌いなんだよ」


 マルタが言う。


 誰に向けた言葉でもないみたいに。


「切るなら早く切る。運ぶなら最速で運ぶ。中途半端が一番面倒」


「相変わらずだなあ」


 レオンが肩を回しながら言う。


「もっとこう、情緒とかねえの?」


「必要か?」


「なくても困らねえけど」


「ならいいだろ」


 それで会話は終わっていた。


 ユリウスは二人を見た。


 レオンの軽さも、マルタの無駄のなさも、どちらもこの街では自然に見える。



「……あんたら、こういうの慣れてるのか」


 マルタは剣を鞘に収める。


「慣れるしかない」


 振り向きもしないまま言った。


「慣れないで死ぬやつを、何人も見てきた」


 淡々とした声音だった。


 そこには感傷も誇りもない。


 ただ、積み重ねだけがあるように聞こえた。



「で?」


 マルタがようやくこちらを見る。


「今ので帰りたくなったか」


 その問いに、ユリウスはすぐには答えられなかった。


 帰りたいかと聞かれれば、そうかもしれない。


 もう十分見た気もする。


 けれど、それで終われるほど、何も知らなかった。



「……いや」


 小さく首を振る。


「そう」


 マルタはそれだけ言う。


 興味があるのかないのか分からない反応だった。


「なら次からは、自分の足で判断しろ」


「何を」


「逃げるか、残るか」


 あまりにもあっさり言うものだから、返事が遅れた。


 マルタはもう踵を返している。


 話は終わったらしい。




 路地を出ると、外の空気はさっきより冷たかった。


 霧がまた少し濃くなっている。


「……あいつ、あれでだいぶ優しいほうなんだぞ」


 レオンが隣で言う。


「慰めになってないな」


「だろうな」


 レオンは小さく笑った。


 それから少しだけ真面目な顔になる。


「でも、マルタがいると現場は回る」


「だから必要だって?」


「そういうこと」


 答えは簡単だった。


 この街では、必要なものが残る。


 そういうふうにできているのだと、ふと思った。



 三人は教会へ戻る。


 石畳の道は変わらない。


 霧も変わらない。


 人々の顔も変わらない。


 なのにユリウスだけが、少しずつ何かを失っていくような気がした。



 教会の扉が見えてくる。


 その白い壁を見上げたとき、ふと二階の回廊に人影が見えた。


 長い金の髪。


 こちらを見ているのかどうかも分からない距離。


 ただ、風もないのに、その髪だけがわずかに揺れた気がした。



「……どうした」


 レオンの声で我に返る。


 もう一度見る。



 そこには何もなかった。


「いや」


 ユリウスは短く答える。


「なんでもない」


 自分でも、それが本当かどうか分からなかった。





評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ