第2話 正しさのかたち
目が覚めたとき、しばらくどこにいるのか分からなかった。
天井は白い。
余計な装飾はなく、ただ平らに広がっている。
音がない。
外の気配もほとんど感じられなかった。
身体を起こす。
簡素なベッド。
整えられた室内。
必要なものだけが無駄なく置かれている。
誰かの生活というより管理された空間のように見えた。
ユリウスはゆっくりと立ち上がった。
窓を開ける。
冷たい空気が流れ込んできた。
霧は、まだ残っている。
夜よりは薄い。
それでも、遠くははっきりと見えなかった。
街はすでに動いているはずだった。
けれど、騒がしさはない。
静かなまま、人だけが動いているような気配。
扉を開ける。
廊下に出る。
足音がやけに響いた。
人の気配はある。
遠くで誰かが話している声も聞こえる。
それでも、空気は張りつめたままだった。
「おはようございます」
声をかけられる。
振り向くと、白衣の青年が立っていた。
昨日の夜、教会を案内してくれた男だ。
「……ああ」
ユリウスは短く答える。
「よく眠れましたか?」
「問題ない」
「それはよかった」
青年は柔らかく微笑む。
自然な動きだった。
「エリアスです。覚えていらっしゃいますか」
「覚えている」
「ありがとうございます」
軽く頭を下げる。
形式的ではない。
それでも、どこか整いすぎていた。
「少し案内をしましょうか」
そう言って歩き出す。
ユリウスはそれに続いた。
教会の中は広い。
無駄なものはない。
どこも整っていて、清潔だった。
人が動いている。
掃除をしている者。
書き物をしている者。
祈っている者。
それぞれが決められた役割を果たしているように見えた。
無駄な動きがない。
無駄な言葉もない。
「ここは、皆で支え合って運営されています」
エリアスが言う。
「外の人間も受け入れていますし、街の安全も守っています」
「……安全、か」
「はい」
迷いのない返答。
それ以上の説明はしない。
ユリウスもそれ以上は聞かなかった。
奥へ進む。
空気が少しだけ変わる。
人の気配が薄くなる。
「こちらは、あまり使われない区画です」
エリアスが言う。
「何かあったときのための場所ですね」
扉の前で立ち止まる。
一瞬だけ、間があった。
それから、静かに言う。
「外の方には、一度見ていただいたほうがいいと思いまして」
ユリウスは何も言わない。
エリアスはそのまま続ける。
「ここで起きていることを、誤解されたくありませんから」
やわらかい声だった。
押しつけるような響きはない。
それでも、断る余地はなかった。
扉が開く。
中は薄暗かった。
窓は閉じられている。
光はほとんど入ってこない。
わずかに、鉄の匂いがした。
人が横たわっている。
若い男だった。
呼吸は浅い。
規則的ではない。
「……まだ生きてるな」
ユリウスが言う。
「ええ」
エリアスは穏やかに頷く。
「ですが、このままではいけません」
男のそばに膝をつく。
動作は丁寧だった。
無駄がない。
「……助かるんじゃないのか」
問いかける。
エリアスは一度だけ手を止めた。
それから、ゆっくりと顔を上げる。
「いいえ」
やわらかい声だった。
「この方は、もう助かりません」
「なぜ」
「噛まれていますから」
簡単に言う。
それだけで十分だと言うように。
男が小さく呻く。
目が開く。
焦点は合っていない。
「……だ、れ……」
かすれた声。
エリアスはその手を取る。
「大丈夫です」
優しく言う。
「もう、苦しみません」
その言葉に、男の表情がわずかに緩む。
安心したように、息を吐く。
ユリウスは動かなかった。
何かを言うべきかどうか、判断がつかなかった。
「……こういう場面は、慣れないですよね」
エリアスが静かに言う。
視線は外さない。
ただ、少しだけ声の温度が落ちる。
「ですが」
続ける。
「苦しみを長引かせることは、優しさではありません」
その言葉は穏やかだった。
説き聞かせるようでもなく、ただ、事実を述べるように。
――次の瞬間。
エリアスの手が、男の喉元に触れる。
迷いはなかった。
音もなく、動きは終わる。
男の身体がわずかに揺れて、静止する。
部屋の中が、さらに静かになる。
エリアスはゆっくりと立ち上がる。
軽く目を伏せる。
「これで、この方は安らかに眠れます」
祈るように手を組む。
その姿はどこまでも誠実だった。
「……それでいいのか」
ユリウスが言う。
声は低かった。
エリアスは顔を上げる。
「はい」
はっきりと答える。
「これが、最善です」
疑いはなかった。
その目は、揺れていない。
ユリウスは何も言えなかった。
否定する言葉が見つからない。
けれど、納得もできなかった。
エリアスは男の顔に布をかける。
丁寧な動作だった。
眠らせるように。
「外に出ましょうか」
何事もなかったように言う。
ユリウスは一瞬だけ、その場に残った。
布の下の輪郭を見る。
やがて、何も言わずに踵を返した。
廊下に出る。
扉が閉まる。
音は小さい。
それでも、やけに遠くに感じられた。
空気が、少しだけ軽くなる。
それでも、胸の奥に残ったものは消えなかった。




