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やがて霧に還る  作者: いづくにか
セラフィナ編
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第57話 選べないまま

 呼吸が、戻らない。


 浅いまま整わない。


「……は……っ」


 セラフィナは膝をついたまま、動けずにいた。


 舞台の中央。


 何もない場所。


 逃げ場も、隠れる場所もない。



 視界が揺れる。


 暗いはずなのに、やけに鮮明に見える。


 輪郭が強い。


 色が濃い。



 イレーネはその中心にいた。


 動かない。


 逃げない。


 ただ、そこにいた。



「……なんで」


 かすれた声が出た。


 自分でも驚くくらいの弱い声。


「……なんで、逃げないの」



 イレーネは少しだけ首を傾げた。


「逃げた方がいい?」


 本気で分からないみたいに言う。



 セラフィナの眉が歪む。


 苛立ちとも違う。


 理解できないことへの反応。


「……いいとかじゃない」


 息を整えながら言う。


「今、危ないって言ってるの」



 イレーネはそれを聞いていた。


「そっか」


 小さく頷く。


 それだけ。


 でも、離れない。



「……っ」


 セラフィナの指が床を強く掴んだ。


「……私、今」


 言葉を絞り出す。


「普通じゃない」


「うん。見れば分かるよ」


 穏やかに、事実として肯定するだけ。



 その軽さに、一瞬だけ言葉が詰まる。


「……分かってて、なんで」



 イレーネは少し考える。


 本当に少しだけ。


「……来たから、かな」


 またそれ。


 理由になっていない理由。



 イレーネの首元に視線が落ちる。


 皮膚の下に流れているもの。


 喉が鳴る。


 小さく、でも、はっきりと。



 イレーネはそれを見ていた。


 何も言わず、止めもせず、ただ、そのまま見ていた。



 セラフィナの手がゆっくりと動いた。


 今度は、迷いがない。



 一歩、距離が縮まる。



 イレーネは動かない。


 受け入れるみたいに。



 もう一歩。



 すでに触れられる距離。



 セラフィナの指先が強く震えた。



 頭の中に、別のものが浮かんだ。


 同じ距離。


 同じ位置。


 ユリウス。







「……っ」


 動きが止まった。


 視線が揺れた。


 イレーネと、重なる。



 違う。


 はずなのに。


 でも、完全には切り離せない。




 イレーネが口を開いた。


「いいよ」


 静かに言う。


「それでもいいと思う」


 同じ言葉。


 変わらない温度。


 その言葉が、深く沈む。


 引きずり込むみたいに。



 セラフィナの呼吸がさらに乱れる。


「……っ、は……」


 指が、あと少しで触れる。



 その瞬間、完全に理解した。


「……だめだ」


 はっきりと言う。


「……これ」


 言葉が震える。


「……どっちでも、きれいじゃない」


 絞り出した本音。



 手が止まり、そのまま、落ちた。


「……っ」


 膝から、崩れ落ちた。



 呼吸が荒い。


 止まらない。


 でも、それ以上は動かない。




 イレーネは近づかない。


 触れない。


 ただ、そのまま見ていた。



 セラフィナは顔を伏せた。


 視界を遮る。


 それでも、消えない。


 消えてくれない。




 少しだけ、時間が流れた。


 静かに、何も変わらずに、ただ少しだけ。




 イレーネが言う。


「大丈夫?」


 言葉はやわらかい。



 すぐには返事はない。



 しばらくして、小さく声が出た。


「……よくない」


 はっきりと、でも、弱い声。



 イレーネはそれを聞く。


 否定しない。


「そっか」


 それだけ。


 それ以上は言わない。


 慰めない。


 導かない。


 ただ、そこにいた。



 セラフィナは動かない。



 静かな劇場。


 幕は降りたまま。


 終わりも、始まりもない場所で、選べないまま、止まっているものがあった。






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