第56話 幕の降りた場所
その場所は静かだった。
街の外れ。
もう使われていない劇場。
壁は崩れ、看板も外れかけている。
中は暗い。
灯りもない。
人の気配もない。
セラフィナは中に入った。
迷いはない。
躊躇もない。
ただ、ここを選んだ。
扉を閉めると重い音が響き、外と切り離された。
「……これで」
小さく呟く。
「大丈夫」
誰に言うでもなく。
自分に。
静かに奥へ進む。
舞台の方へと。
客席は崩れている。
椅子は倒れ、埃が積もっている。
誰もいない。
何もない。
完璧だった。
舞台の中央に立つ。
何もない場所。
空っぽの空間。
少しだけ、深く息を吐いた
ここなら、誰もいない。
選ばなくていい。
壊さなくていい。
ゆっくりと目を閉じた。
――静かだ。
何も聞こえない。
それでも、身体は正直だった。
「……っ」
呼吸が乱れる。
さっきよりも強く、明確に。
喉が焼ける。
空っぽの感覚。
何も入っていない。
視界が揺れる。
閉じているのに、見える。
赤いもの。
流れているもの。
「……っ」
歯を食いしばる。
抑える。
押し込む。
「……ここなら」
小さく言う。
「誰もいない」
確認するように。
でも、それでも、収まらない。
「……っ、は……」
呼吸が荒い。
止まらない。
膝がわずかに落ちる。
支える。
崩れない。
まだ、崩れない。
頭の中が、少しだけずれる。
考えがまとまらない。
浮かぶ。
同じもの。
同じ場所。
同じ距離。
ユリウス。
「……っ」
強く首を振って否定する。
「……違う」
はっきりと。
「……それは、違う」
繰り返す。
何度も。
でも、消えない。
むしろ、はっきりする。
“あれなら”――――――
言葉にならない。
その瞬間、背後で、音がした。
セラフィナの身体が止まる。
呼吸すら止まった。
ゆっくりと、振り向く。
舞台の端。
暗がり。
そこに、人影があった。
気配は、なかったはずだった。
ここには、誰もいないはずだった。
「……なんで」
かすかに声が出た。
抑えきれずに。
影が、少しだけ動いた。
ゆっくりと、こちらへ。
足音はない。
ただ、近づいてくる。
輪郭が見える。
顔が見える。
柔らかい目。
穏やかな表情。
イレーネ。
「……来たから」
いつもと同じ声で静かに言った。
理由になっていない理由。
セラフィナは動かなかった。
理解が追いつかない。
「……ここ」
イレーネが少しだけ見回す。
「静かだね」
感想みたいに言う。
セラフィナは何も返さない。
余裕がない。
それどころじゃない。
イレーネは近づく。
一歩。
また一歩。
距離が縮まる。
「……来ないで」
小さく言う。
でも、初めて、明確に。
イレーネは止まらない。
ただ、速度が少しだけ落ちる。
「……なんで?」
穏やかに聞く。
本当に分かっていないみたいに。
セラフィナの呼吸がさっきよりも、さらに乱れた。
「……無理だから」
絞り出すように言う。
「……今、ちょっと」
言葉が続かない。
説明できない。
イレーネはそれを聞く。
そのまま受け取る。
否定しない。
「そっか」
小さく頷いた。
「じゃあ、ここでいいよ」
その場に立つ。
それ以上近づかない。
でも、離れない。
セラフィナはそれを見ていた。
意味が分からない。
イレーネはただ立っている。
逃げない。
隠れない。
拒まない。
その存在が、危険だった。
明確に。
「……っ」
セラフィナの身体が揺れる。
視界が強く歪んだ。
イレーネを見た。
今度は、はっきりと。
近い。
距離はまだある。
でも、足りる距離。
ゆっくりと理解した。
「……ああ」
小さく呟く。
「……これ、だめだ」
イレーネは何も言わなかった。
ただ、見ていた。
セラフィナの手が動く。
ゆっくりと。
今度は、止まらない。
距離が縮まる。
一歩。
また一歩。
理性が遅れている。
イレーネは動かない。
そのまま受け入れるみたいに。
もうすぐ、触れられる距離。
そのとき――
「……それでもいいよ」
静かな声。
変わらない温度。
セラフィナの動きが、ほんの一瞬だけ止まった。
言葉が、深く引っかかる。
次の瞬間、強く手が震えた。
「……っ」
止まる。
無理やり。
今度は、自分で。
「……は……っ」
息が漏れる。
ついに、その場に膝をついた。
支えきれない。
イレーネは動かなかった。
近づかない。
ただ、そこにいる。
セラフィナは苦しそうに顔を上げた。
でも、まだ崩れていない。
静かな劇場に、呼吸だけが響いていた。
幕はとっくに降りている。
誰も見ていない。
それでも、終わっていないままの場所で。




