第50話 近すぎる距離
夜は変わらない。
静かで、何も起きていないみたいに、ただそこにある。
ユリウスは歩いていた。
特に目的はない。
ただ外の空気を吸っていた。
足が止まる。
理由は分かっている。
もう、分かるようになっている。
「……いるんだろ」
小さく呟く。
「いるよ」
あっさりと、声が返った。
振り向くまでもない。
セラフィナがいる。
最初からいたみたいに。
「……やっぱりな」
ユリウスは軽く息を吐いた。
驚きはない。
「探してた?」
セラフィナが聞く。
やわらかく。
「……別に」
短く答えた。
だが、否定しきれていない。
「そっか」
それ以上は言わない。
ただ、同じ距離に立つ。
近すぎるくらいの距離に。
沈黙。
だが、重くはない。
以前とも違う。
落ち着いている。
けれど、どこかで噛み合っていない。
「……前よりさ」
ユリウスが口を開いた。
「なんか、静かだな」
ぽつりと言った。
セラフィナが少しだけ目を細める。
「前って?」
「……分かんねえ」
正直に言う。
曖昧なまま。
「でも、なんか違う」
それだけだった。
セラフィナは少しだけ考える。
答えはある。
だが、言わない。
「そうかもね」
軽く流す。
それ以上踏み込まない。
ユリウスはそれを追わない。
追えない。
理由が足りない。
「……お前さ」
少しだけ顔を向ける。
「前、何してたんだっけ」
曖昧な問い。
だが、核心に近かった。
セラフィナは一瞬だけ止まる。
ほんのわずかに。
「……さあ」
柔らかく笑った。
「いろいろ?」
曖昧に返す。
はぐらかす。
いつも通り。
「……だよな」
ユリウスはそれで納得する。
深く考えない。
沈黙が落ちた。
夜の音だけが残る。
セラフィナは横目でユリウスを見た。
観察する。
前とは違う。
完全に違うわけではない。
でも、崩れてもいない。
ほんの少しだけ、意識的に距離を詰めた。
ユリウスは動かない。
拒まない。
だが、引き込まれもしない。
明確に違う。
以前のように、自然に落ちていかない。
セラフィナは目を細めた。
興味。
違和感。
そして、わずかな苛立ち。
「……ねえ」
小さく呼ぶ。
「ん?」
「ちょっとだけ、いい?」
やわらかく言う。
いつも通りに、同じ言葉を、同じ距離で。
ユリウスは少しだけ考えた。
ほんの一瞬。
それから、
「……いいけど」
軽く答えた。
だが、前よりも“間”がある。
その違いを、セラフィナは見逃さない。
手を伸ばした。
触れる寸前の距離。
距離はゼロに近い。
呼吸が重なる。
意識が重なる、はずだった。
止まる。
ほんのわずかに。
自分で、止めた。
「……どうした」
ユリウスが不思議そうに言った。
セラフィナは何事もなかったように手を下ろした。
「……なんでもない」
軽く笑って誤魔化す。
だが、誤魔化しきれていない。
「……そうか」
ユリウスはそれ以上聞かない。
踏み込まない。
その距離が、また違った。
沈黙が少し長い。
そのとき、ふと、セラフィナの視線が外れる。
路地の奥。
誰もいないはずの場所。
一瞬だけ、目を細める。
「……いる?」
小さく呟いた。
誰にも聞こえないくらいの声で。
「……?」
ユリウスが首を傾げる。
「何が」
「……ううん」
すぐに首を振る。
「なんでもない」
視線を戻す。
だが、完全には戻っていない。
何もない。
気配もない。
それでも、何かがあった気がした。
セラフィナはそれを深く追わない。
今は、それよりも優先するものがある。
「……ねえ」
もう一度呼ぶ。
今度は、少しだけ違う声で。
「なに」
「……やっぱりさ、ちょっと、惜しいよね」
小さく笑って、真っ直ぐユリウスを見た。
「……何が」
「全部」
さらっと言う。
冗談みたいに。
でも、本気で。
ユリウスは少しだけ眉をひそめた。
意味は分からない。
だが、嫌ではない。
「……そうか」
それだけ返す。
それ以上は、何も言わない。
セラフィナはその反応を見ていた。
前とは違う。
でも、悪くない。
少しだけ笑った。
ほんのわずかに。
「……まあ、いいか」
小さく呟やいた。
誰にでもなく。
そのまま、隣に立っていた。
距離は近いまま。
だが、重なりはしない。
完全には、届かない。
それでも、離れない。
中途半端なまま、成立している距離だった。




