第51話 境界のないもの
霧が出ていた。
いつもより少しだけ濃い。
街の輪郭が曖昧になる。
灯りも、人影も、すべてがぼやけている。
セラフィナは立ち止まった。
路地の途中。
いつもと同じ場所のはずなのに、少しだけ違って見える。
「……珍しい」
小さく呟く。
霧は嫌いじゃない。
むしろ、都合がいい。
境界が曖昧になるから。
余計なものが消えるから。
だが、今日は少しだけ違う。
見えないはずのものが、いそうな気がする。
霧の奥に視線を向けた。
人影のようなものがゆっくりと、こちらに近づいてきた。
足音はしない。
気配も、ほとんどない。
ただ“そこにいる”と分かる。
セラフィナは動かなかった。
逃げない。
隠れもしない。
ただ、見ていた。
影が近づき、霧の中から、ゆっくりと輪郭が浮かび上がった。
女。
静かな顔。
柔らかい目。
特に警戒もなく、そこに立っている。
「……こんばんは」
先に口を開いたのは、その女だった。
穏やかで温度がある声。
だが、押し付けがましくない。
セラフィナは答えない。
観察する。
姿勢。
呼吸。
視線。
すべてが、整っていない。
だが、崩れてもいない。
明確な違和感。
「……何」
短く聞いた。
警戒はない。
ただ、興味。
女は少しだけ首を傾げた。
「なんだろうね」
ふわっと笑う。
「なんとなく、来ちゃった」
その言葉に、セラフィナの眉がわずかに動く。
「……理由ないの?」
「うん」
あっさりと頷く。
「でも、来てもいい気がしたから」
それだけ。
説明になっていない。
だが、本人は気にしていない。
セラフィナは黙った。
女を測る。
だが、基準が合わない。
「……あんた」
少しだけ踏み込む。
「何してるの」
問いは直接的だった。
女はほんの少しだけ考える様子を見せた。
「……うーん」
視線が上を向く。
「生きてる、かな」
軽く言った。
冗談みたいに。
だが、冗談ではない。
セラフィナは目を細める。
理解できない。
分類できない。
「……吸わないの」
試すように、ぽつりと聞いた。
女は一瞬だけ止まり、それから、少しだけ笑った。
「……うん」
小さく頷く。
「なるべくね」
曖昧な答え。
だが、嘘ではない。
「……なるべく?」
「全部は無理だったから」
さらっと言う。
重さはない。
その言葉に、わずかな違和感を感じる。
「……じゃあ、なんで」
セラフィナが続ける。
「壊れてないの」
核心に近い問い。
女は少しだけ考え、そして、やわらかく答えた。
「壊れてるよ」
あっさりと言った。
否定しない。
「でも、それでもいいかなって思ってる」
その言葉が、静かに落ちた。
霧の中に溶けるように。
セラフィナは何も言えなかった。
否定できない。
肯定もできない。
理解が追いつかない。
なのに、拒絶もできない。
「……選ばないの」
自分でも気づかないうちに小さく聞いていた。
女は少しだけ笑う。
「選んでるよ」
優しく言う。
「全部」
その答えが、決定的だった。
セラフィナの中で、何かが揺れる。
基準が、音を立てて歪む。
霧が濃くなっていた。
視界が揺れる。
境界が曖昧になる。
「……あんた」
名前を聞こうとする。
だが、女は先に言った。
「イレーネ」
静かに。
「そう呼ばれてるよ」
それだけを。
それ以上は何も言わない。
沈黙。
霧が二人の間に漂う。
距離は近い。
だが、重ならない。
セラフィナは視線を逸らした。
一瞬だけ。
それから、また戻す。
だが、さっきまでと同じ見方ができない。
イレーネは何も言わない。
ただ、そこにいる。
受け入れるように。
拒まないまま。
セラフィナは小さく息を吐いた。
ほんの少しだけ、疲れている。
「……変なの」
ぽつりと呟く。
誰に向けた言葉でもない。
「そうかもね」
イレーネが答える。
やわらかく。
「でも、それでもいいと思うよ」
その言葉が、静かに刺さる。
深く、じわじわと。
セラフィナは何も返さない。
返せない。
そのまま、霧の中へゆっくりと歩き出した。
イレーネは追わない。
止めない。
ただ、見送った。
その背中を、そのままの形で。
霧は消えない。




