第44話 ほどける名前
名前を、思い出そうとした。
ユリウスは息を止めた。
目の前に、人がいる。
知っている顔。
分かる。
誰かは、分かるはずなのに――
「……」
言葉にならない。
名前が、出てこない。
代わりに、別の感覚が浮かぶ。
安心。
静けさ。
隣にいる存在。
視線がそちらへ流れる。
セラフィナ。
その名前だけは、迷わない。
それ以外が、崩れている。
「ユリウス・レイン」
声が届く。
はっきりと、切り裂くように。
エリアス。
その声も分かる。
だが、距離がある。
「あなたは――」
言葉が続く。
意味を繋ごうとする。
だが、
「そんなの、いいでしょ」
やわらかい声が被さる。
セラフィナ。
近い。
すぐ隣にある。
「無理に思い出さなくても」
優しい。
それが、楽だと分かる。
ユリウスの呼吸が浅くなる。
頭が、重い。
「……おい」
別の声。
低く、力強い。
レオン。
その名前も、分かる。
はずなのに――
繋がらない。
“誰か”ではある。
だが、それ以上にならない。
「……見ろよ」
レオンが言う。
一歩、踏み出す。
だが、止まる。
触れない。
分かっているから。
「お前、俺たちといたんだろ」
真っ直ぐに言葉を投げる。
「一緒に動いてた。覚えてねえわけ、ねえだろ」
強い言葉。
感情が乗る。
ユリウスの視界が揺れる。
何かが、引っかかる。
だが、形にならない。
すぐに崩れる。
「……っ」
頭を押さえる。
痛い。
思い出そうとすると壊れる。
「無理しなくていいよ」
すぐ隣。
セラフィナの声。
「苦しいでしょ」
やわらかく包むようなその言葉に身体が反応する。
力が抜ける。
楽な方へ、傾く。
「……違う」
小さく、声がした。
別の方向から。
弱い、だが、確かに届いた。
「……それは違うだろ」
全員の視線が動いた。
少し離れた場所。
壁にもたれかかるようにして、一人の女が立っていた。
マルタ。
顔色は悪い。
立っているのがやっとの状態。
それでも、ここに来た。
「……何やってんだよ」
レオンが呟く。
驚きと苛立ち。
だが、止めない。
「……うるさい」
マルタは短く返す。
息が荒い。
だが、目は死んでいない。
「……ユリウス」
ゆっくりと名前を呼んだ。
「別にさ」
一歩、足を動かす。
よろける。
それでも、止まらない。
「思い出さなくてもいい」
セラフィナと同じ言葉。
だが、響きが違う。
「でも…どっちでもいいって思うなよ」
その言葉が、重く落ちた。
ユリウスの視線が動く。
マルタを見る。
ぼやけた輪郭。
だが、何かがある。
「……お前さ」
マルタが続ける。
「ここで選ばなかったら」
苦しそうに息を吐く。
「あとで全部、他人のせいにするぞ」
静かな声。
責めていない。
ただ、事実だけを置く。
ユリウスの中で何かが強く引っかかった。
「苦しいのも、怖いのも、分かんなくなるのも」
一つずつ、言葉が刺さる。
「全部、“しょうがない”で終わる」
視線が、真っ直ぐに向く。
「それでもいいなら、何も選ぶな」
静かに言い切った。
「……っ」
ユリウスの呼吸が乱れる。
頭の中で、何かがぶつかる。
楽な方。
繋ぐ方。
削れる方。
全部が、混ざる。
「……ユリウス・レイン」
エリアスがもう一度呼んだ。
さらに強く。
意味を固定する。
「おい」
レオンが言った。
「戻ってこい」
短い言葉。
それだけを。
「……」
セラフィナは何も言わない。
ただ、隣にいる。
変わらずに、逃げ場として。
ユリウスは立っている。
中心で。
すべての間で。
名前がほどける。
関係が揺れる。
意味が消えかける。
それでも、まだ、完全には失われていない。
だから――
選ばなければならない。




