第38話 残り方の偏り
最初は些細なことだった。
「……あれ」
ユリウスは足を止めた。
通りの途中。
見慣れたはずの道。
それなのに、一瞬だけ、分からなくなる。
「……いや」
すぐに思い出す。
問題ない。
進める。
ただ、ほんの少しだけ引っかかる。
歩き出す。
数歩、進む。
そのとき、ふと思う。
――昨日、何してたっけ。
考える。
すぐに出るはずの答え。
だが、少し遅れる。
教会にいた。
それは分かる。
エリアスと話した。
それも覚えている。
でも――
「……そのあと」
空白がある。
完全ではない。
何かあった感覚はある。
だが、形にならない。
代わりに、別のものが浮かぶ。
夜。
静かな空気。
やわらかい声。
セラフィナ。
その名前だけがはっきりと残る。
会話の内容も、表情も、距離も、細部まで、やけに鮮明に。
ユリウスは眉をひそめる。
おかしい。
優先順位が、ずれている。
もっと覚えているべきものがある、はずなのに。
思い出そうとする。
教会の中。
エリアス。
レオン。
マルタ。
ノア。
浮かぶ。
だが、輪郭がぼやけている。
名前はある。
だが、それ以上が薄い。
逆に、セラフィナだけが、やけに“濃い”。
「……なんだよ、これ」
小さく呟く。
気味が悪い。
だが、完全に崩れているわけじゃない。
まだ、考えられる。
判断もできる。
そのはずなのに――
「考えすぎなくていいよ」
すぐ隣で声がした。
振り向くとセラフィナがいる。
当たり前みたいに。
ユリウスは一瞬止まる。
「……いつからいた」
「さっきから」
自然に答える。
違和感はない、はずなのに。
「……そうか」
ユリウスはそれ以上追及しない。
する気が起きない。
「ねえ」
セラフィナが少しだけ近づいた。
「疲れてるんじゃない?」
やわらかい声。
「……まあな」
否定しない。
「なら、無理しないほうがいいよ」
当たり前のことを言う。
正しい。
だからこそ、抵抗がない。
「考えようとすると、余計に崩れるから」
その言葉に、一瞬だけ違和感が走った。
――崩れる?
だが、すぐに消えた。
ユリウスは黙る。
考えるのをやめる。
それが、楽だった。
セラフィナはそれを見ていた。
何も言わない。
ただ、そこにいる。
それだけで、十分だった。
その頃、教会の中では、別の“選択”が進んでいた。
「現状のままでは、回収は困難です」
エリアスが言う。
静かに、だが、はっきりと。
司祭長は何も言わない。
聞いている。
「彼は観測の中心になっていることが予想されます。対象を中心に影響が大きくなるでしょう。しかし、対象は既に外部との接触を優先しています。制限を受け入れる可能性は低い」
合理的な分析。
感情はない。
「……つまり」
レオンが口を開く。
低い声で言う。
「無理に連れ戻すしかねえってことか」
エリアスは即答しない。
数秒、沈黙する。
「……可能ではあります」
ようやく言う。
「ただし」
一拍置く。
「成功率は高くありません。加えて」
視線がわずかに動く。
「接触によるさらなる影響のリスクがあります」
レオンが舌打ちする。
「じゃあ放置かよ」
苛立ちが混じる。
マルタが壁にもたれたまま言う。
「……あいつ、もう“外”だろ」
短い。
だが、核心をついている。
沈黙が落ちた。
誰もすぐには否定しない。
司祭長が目を閉じる。
一瞬だけ、思考を整理するように。
そして、開いた。
「選択は二つです」
静かに言う。
「回収するか、切り離すか」
誰も動かない。
どちらも正しい。
どちらも間違っている。
「……俺は行く」
レオンが言う。
即答だった。
「引きずってでも連れてくる」
迷いはない。
エリアスが視線を向ける。
「……リスクが高いです」
「分かってる」
被せるように言う。
「でも放っとくよりマシだ」
それも正しい。
マルタが小さく笑った。
「……甘いな」
だが、否定はしない。
「……でも嫌いじゃねえ」
小さく付け足す。
司祭長は全員を見る。
一人ずつ。
そして、ゆっくりと言った。
「……回収を試みます」
静かな決定。
「ただし」
一拍置く。
「失敗した場合」
その先は、言わない。
だが、全員が理解する。
“切り離す”。
それが、次の選択になる。
教会は、まだ手を伸ばしている。
届かないと分かっていながら。
それでも。




