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やがて霧に還る  作者: いづくにか
ノクス編
30/75

第30話 名前のない理由

 名前が、思い出せない。



 ノアは立ち尽くしていた。


 廊下の途中。


 何かをしに来たはずだった。


 誰かに会うために。


 それは分かる。


 目的も、理由も、あるはずなのに。


「……」


 出てこない。


 喉の奥で、言葉が引っかかる。


 焦りはない。


 ただ、妙な違和感だけが残る。



「……失礼します」


 誰かに声をかけられる。


 修道士の一人だ。


 軽く会釈をする。


「ノアさん、先ほどの件ですが――」


「ええ」


 ノアは頷く。


 自然に。


 柔らかく微笑む。


 いつも通りに。


「確認は済んでいます」


 言葉は滑らかに出る。


 問題はない。


 そう思える。



「……どの件でしたでしょうか」


 相手が少し困ったように言った。


「え?」


 ノアは一瞬止まる。


 だが、すぐに整える。


「先ほど、お話しした……」


 言いかけて、止まる。


 ――何の話だ?


 頭の中が、ほんの少しだけ空白になる。


「……ああ、いえ」


 ノアは軽く笑う。


 ごまかすように。


「こちらの勘違いでした」


 丁寧に頭を下げる。


 それで終わらせる。


 相手も深くは追及しない。


「そうですか」


 それだけ言って去っていく。


 問題はない。


 どこにも。


 ただ、胸の奥に、小さな穴が空いているような感覚だけが残る。



 ノアは歩き出した。


 足取りは安定している。


 姿勢も崩れていない。


 外から見れば、何も変わらない。




 そのまま、礼拝堂の前を通り過ぎる。


 ふと、足が止まった。


 中から声が聞こえる。


 誰かが祈っている。


 静かな声。


 途切れずに続いている。


 ノアはその場に立つ。


 理由はない。


 ただ、聞いていた。


「……」


 何かを思い出しそうになる。


 大切なもの。


 強い感情。


 胸の奥に残っているはずの、確かな記憶。


 ――誰だったか。


 喉が、わずかに動く。


「……」


 言えない。


 名前が出てこない。


 顔も、声も、思い出せない。


 それなのに、感情だけが残っている。


 重く、強く、どうしようもなく。



「……殺さないと」


 小さく呟く。


 自分でも気づかないくらいの声で。


 それだけが、はっきりしている。


 理由は分からない。


 対象も分からない。


 だが、それだけが残っている。




「……ノア」


 声がした。


 振り向くと、エリアスが立っていた。


 静かな目でこちらを見ている。


「……何をされていますか」


 穏やかな問い。


 だが、視線は外さない。


 観察している。


「……少し」


 ノアは微笑む。


 いつも通りに。


「考え事を」


「そうですか」


 エリアスは一歩近づいた。


「内容を、お聞きしてもよろしいでしょうか」


 柔らかい言い方。


 拒絶はされない。


 だが、逃がさない。


「……大したことでは」


 ノアは言いかけて、止まる。


 何を考えていたのか、言葉にしようとして。


 できない。




 沈黙。


 ほんの数秒。


 だが、長く感じる。


「……いえ」


 ノアは軽く首を振る。


「忘れてしまいました」


 笑う。


 丁寧に。


 自然に。


 だが、どこかが空白だ。


 エリアスは黙る。


 視線を逸らさない。



「……ノア」


「はい?」


「ご家族のことを、お聞きしてもよろしいですか」


 唐突な問い。


 だが、意図は明確。


 ノアの表情が、ほんのわずかに止まった。


「……家族、ですか」


 繰り返す。


 確認するように。


「ええ」


 エリアスは頷く。


「あなたのご家族です」


 逃げ場はない。


 ノアは視線を落とす。


 考える。


 探す。


 記憶を。


「……」


 出てこない。


 何も。


 顔も、声も、名前も。


 ただ、感情だけが残る。


 重く、苦しい、それだけ。



 口が開く。


 何か言おうとして。


「……」


 止まる。


 言葉が、ない。



「……分かりません」


 静かに言った。


 初めて、取り繕わずに。




 エリアスの目が、わずかに細くなる。


「……そうですか」


 それだけ言う。


 否定もしない。


 慰めもしない。


 ただ、受け止める。



「……ですが」


 エリアスは続ける。


「感情は、残っているのですね」


 ノアはゆっくり頷く。


「ええ……強く」



 エリアスは目を閉じた。


 一瞬だけ。


 思考をまとめるように。



 そして、静かに言う。


「これは――」


 言葉を選ぶ。


 慎重に。


「“記憶の欠落”ではありません」


 ノアが顔を上げる。


 エリアスを見る。


「……どういう意味ですか」


 エリアスは答える。


 迷いなく。


「“前提が削られています”」


 静かな断定。


「あなたという存在を構成している“基盤”が、部分的に、失われています」



 ノアは黙った。


 理解できない。


 だが、否定もできない。


 胸の奥にある感情だけが、現実だった。


「……それでも」


 ノアが呟く。


「……やらないと」


 何を、とは言わない。


 言えない。


 それでも、確かにそこにある。



 エリアスはそれを見る。


 止めることも、否定することもできない。


 ただ、理解する。


 これはもう、個人の問題ではない。


 現象だ。



 そして――


 止める手段は、まだない。



 教会の中で、何かが決定的に壊れ始めていた。





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