第28話 正しくても、届かない
部屋の空気はいつもと同じだった。
静かで、整っていて、どこにも乱れはない。
だが、そこにいる全員が、それが“同じではない”ことを知っていた。
視線が集まる。
司祭長へ。
柔らかな光を背に受けて、その姿は変わらず穏やかだった。
だが、言葉が落ちる前から場の空気は張り詰めている。
「現状の確認を行います」
静かな声。
「これは個別の不調ではありません」
一拍置く。
「認識の揺らぎが、複数箇所で同時に発生しています」
誰も驚かない。
すでに、感じているからだ。
「記録は正常です。ですが、我々の認識が、それに追いついていない」
言葉が、正確に落ちる。
ユリウスはその場に立っていた。
理解はしきれない。
だが、否定もできない。
「対処を行います」
司祭長の声は変わらない。
落ち着いたまま。
「今後、全ての行動は二名以上で。単独行動は禁止とします」
ざわめきは起きない。
だが、わずかな緊張が走る。
「また、一定時間ごとに、現在の状況を口頭で確認してください。誰といるか、何をしているか、それを互いに言葉にして共有すること」
理にかなっている。
エリアスは小さく頷く。
理解できる。
補助として機能するはずだ。
「さらに」
司祭長は続ける。
「各自、自身にとって重要な記憶を保持してください」
視線が少しだけ動く。
「人でも、出来事でも構いません。繰り返し思い出し、言葉にすることで、認識の軸を保ってください」
ユリウスはわずかに眉をひそめる。
それは、対処というより――
祈りに近い。
だが、司祭長の声に迷いはなかった。
「……以上です」
短く締める。
「異常を感じた場合は、即座に報告を」
沈黙。
誰も動かない。
そのとき、
「それで、止まるのか?」
レオンの声。
低く、抑えられているが苛立ちが混じる。
司祭長は視線を向けた。
「現時点で可能な最適解です」
静かに答える。
レオンは小さく舌打ちした。
「……分かんねえもん相手に、やれることなんざ限られてるか」
吐き捨てるように言う。
だが、引かない。
「……現場は止まらねえぞ」
「承知しています」
司祭長は頷く。
揺れない。
そのやり取りをユリウスは見ていた。
誰も間違っていない。
それでも、何かが足りない。
会議は解散した。
人が動き出す。
いつも通りに見える。
だが、どこかぎこちない。
ユリウスも廊下へ出る。
そして、すぐに気づく。
「……あれ?」
近くにいた修道士が隣の相手に話しかけている。
「……今、誰と組んでましたっけ」
修道士の声。
「え?」
聞かれた側が戸惑う。
「さっきまで一緒に……」
止まる。
言葉が続かない。
「……すみません」
笑う。
誤魔化す。
だが、目は笑っていない。
別の場所。
「今、何を確認していたんでしたか」
「ええと……」
止まる。
数秒の沈黙。
「……まあ、いいか」
なかったことにする。
ユリウスは立ち尽くした。
さっきの対策は、間違っていない。
むしろ正しい。
それなのに成立していない。
ユリウスの胸の奥がざわつく。
そのとき、
「――ねえ」
声がする。
すぐ近く。
振り向く。
誰もいない。
廊下は静かだ。
人の気配はある。
だが、今の声の主は見当たらない。
振り向く。
誰もいない。
「ねえ、聞いてる?」
少し幼い声。
近い。
だが、姿はない。
「……誰だ」
ユリウスが低く言う。
「誰って、ひどくない?」
軽い笑い。
女性の声。
「さっき会ったでしょ?」
間がある。
「……あれ、違った?」
少し迷う。
声が揺れる。
「まあいいや」
今度は落ち着いた男の声。
低く、穏やか。
「記憶って、不思議だよね」
また変わる。
柔らかい。
年配のような響き。
「あるものがなくなっても、続いていく」
次は、さっきの修道士の声に似ている。
「逆に、なくなったことにも気づかない」
くす、と笑う。
子どものように。
「でもさ」
今度は、エリアスに似た声。
静かで、落ち着いている。
「君は少し違う」
さらに変わる。
低く、冷たい。
どこか、アデルに似た響き。
「外から来た人間は、面白い」
最後に、誰でもない声になる。
輪郭がない。
「どこまで残るんだろうね」
沈黙。
次の瞬間、気配が消える。
ユリウスは動けなかった。
理解できない。
だが、分かる。
――見られている。
そのとき、
「ユリウス」
声がかかる。
振り向く。
ノアだった。
少し息が上がっている。
だが、笑っている。
いつも通りの顔。
「すみません、少しいいですか」
丁寧な口調。
柔らかい。
「……どうした」
「その……確認なんですが」
少しだけ言い淀む。
だが、すぐに整える。
「僕、さっきあなたと一緒にいましたよね?」
ユリウスは一瞬止まる。
「……いや、今が初めてだ」
「……え?」
ノアの表情が固まる。
ほんの一瞬。
「いえ、でも……」
視線が揺れる。
「さっき、ここで……」
言葉が続かない。
思い出そうとする。
だが、出てこない。
「……すみません」
無理に笑う。
「勘違いみたいです」
それで終わらせようとする。
だが、終わらない。
「……」
ノアの視線が、ユリウスの後ろを向く。
「……あれ?」
小さく呟く。
「今、誰か……」
そこには、誰もいない。
沈黙。
ノアの呼吸が少しだけ乱れる。
「……ああ、いえ」
すぐに整える。
笑う。
「気のせいですね」
丁寧に頭を下げる。
「お時間、ありがとうございました」
そのまま離れていく。
背筋は伸びている。
足取りも安定している。
だが、何かが決定的にずれている。
ユリウスはその背中を見ていた。
胸の奥が冷える。
これは、もう、戻らない。
教会の中は、完全に、侵されている。




