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やがて霧に還る  作者: いづくにか
ノクス編
28/75

第28話 正しくても、届かない

 部屋の空気はいつもと同じだった。


 静かで、整っていて、どこにも乱れはない。


 だが、そこにいる全員が、それが“同じではない”ことを知っていた。



 視線が集まる。


 司祭長へ。


 柔らかな光を背に受けて、その姿は変わらず穏やかだった。


 だが、言葉が落ちる前から場の空気は張り詰めている。


「現状の確認を行います」


 静かな声。


「これは個別の不調ではありません」


 一拍置く。


「認識の揺らぎが、複数箇所で同時に発生しています」


 誰も驚かない。


 すでに、感じているからだ。


「記録は正常です。ですが、我々の認識が、それに追いついていない」


 言葉が、正確に落ちる。



 ユリウスはその場に立っていた。


 理解はしきれない。


 だが、否定もできない。



「対処を行います」


 司祭長の声は変わらない。


 落ち着いたまま。

 

「今後、全ての行動は二名以上で。単独行動は禁止とします」


 ざわめきは起きない。


 だが、わずかな緊張が走る。


「また、一定時間ごとに、現在の状況を口頭で確認してください。誰といるか、何をしているか、それを互いに言葉にして共有すること」


 理にかなっている。


 エリアスは小さく頷く。


 理解できる。


 補助として機能するはずだ。



「さらに」


 司祭長は続ける。


「各自、自身にとって重要な記憶を保持してください」


 視線が少しだけ動く。


「人でも、出来事でも構いません。繰り返し思い出し、言葉にすることで、認識の軸を保ってください」


 ユリウスはわずかに眉をひそめる。


 それは、対処というより――


 祈りに近い。


 だが、司祭長の声に迷いはなかった。


「……以上です」


 短く締める。

 

「異常を感じた場合は、即座に報告を」



 沈黙。


 誰も動かない。



 そのとき、


「それで、止まるのか?」


 レオンの声。


 低く、抑えられているが苛立ちが混じる。


 司祭長は視線を向けた。


「現時点で可能な最適解です」


 静かに答える。


 レオンは小さく舌打ちした。


「……分かんねえもん相手に、やれることなんざ限られてるか」


 吐き捨てるように言う。


 だが、引かない。


「……現場は止まらねえぞ」


「承知しています」


 司祭長は頷く。


 揺れない。



 そのやり取りをユリウスは見ていた。


 誰も間違っていない。


 それでも、何かが足りない。




 会議は解散した。


 人が動き出す。


 いつも通りに見える。


 だが、どこかぎこちない。


 ユリウスも廊下へ出る。


 そして、すぐに気づく。



「……あれ?」


 近くにいた修道士が隣の相手に話しかけている。


「……今、誰と組んでましたっけ」


 修道士の声。


「え?」


 聞かれた側が戸惑う。


「さっきまで一緒に……」


 止まる。


 言葉が続かない。


「……すみません」


 笑う。


 誤魔化す。


 だが、目は笑っていない。



 別の場所。


「今、何を確認していたんでしたか」


「ええと……」


 止まる。


 数秒の沈黙。


「……まあ、いいか」


 なかったことにする。




 ユリウスは立ち尽くした。


 さっきの対策は、間違っていない。


 むしろ正しい。


 それなのに成立していない。 


 ユリウスの胸の奥がざわつく。




 そのとき、


「――ねえ」


 声がする。


 すぐ近く。


 振り向く。


 誰もいない。


 廊下は静かだ。


 人の気配はある。


 だが、今の声の主は見当たらない。


 振り向く。



 誰もいない。



「ねえ、聞いてる?」


 少し幼い声。


 近い。


 だが、姿はない。


「……誰だ」


 ユリウスが低く言う。


「誰って、ひどくない?」


 軽い笑い。


 女性の声。


「さっき会ったでしょ?」


 間がある。


「……あれ、違った?」


 少し迷う。


 声が揺れる。



「まあいいや」


 今度は落ち着いた男の声。


 低く、穏やか。



「記憶って、不思議だよね」


 また変わる。


 柔らかい。


 年配のような響き。



「あるものがなくなっても、続いていく」


 次は、さっきの修道士の声に似ている。



「逆に、なくなったことにも気づかない」


 くす、と笑う。


 子どものように。



「でもさ」


 今度は、エリアスに似た声。


 静かで、落ち着いている。



「君は少し違う」


 さらに変わる。


 低く、冷たい。


 どこか、アデルに似た響き。



「外から来た人間は、面白い」


 最後に、誰でもない声になる。


 輪郭がない。


「どこまで残るんだろうね」



 沈黙。



 次の瞬間、気配が消える。


 ユリウスは動けなかった。


 理解できない。


 だが、分かる。


 ――見られている。




 そのとき、


「ユリウス」


 声がかかる。


 振り向く。



 ノアだった。


 少し息が上がっている。


 だが、笑っている。


 いつも通りの顔。


「すみません、少しいいですか」


 丁寧な口調。


 柔らかい。


「……どうした」


「その……確認なんですが」


 少しだけ言い淀む。


 だが、すぐに整える。


「僕、さっきあなたと一緒にいましたよね?」


 ユリウスは一瞬止まる。


「……いや、今が初めてだ」



「……え?」


 ノアの表情が固まる。


 ほんの一瞬。


「いえ、でも……」


 視線が揺れる。


「さっき、ここで……」


 言葉が続かない。


 思い出そうとする。


 だが、出てこない。


「……すみません」


 無理に笑う。


「勘違いみたいです」


 それで終わらせようとする。



 だが、終わらない。


「……」


 ノアの視線が、ユリウスの後ろを向く。


「……あれ?」


 小さく呟く。


「今、誰か……」


 そこには、誰もいない。



 沈黙。



 ノアの呼吸が少しだけ乱れる。


「……ああ、いえ」


 すぐに整える。


 笑う。


「気のせいですね」


 丁寧に頭を下げる。


「お時間、ありがとうございました」


 そのまま離れていく。


 背筋は伸びている。


 足取りも安定している。


 だが、何かが決定的にずれている。



 ユリウスはその背中を見ていた。


 胸の奥が冷える。


 これは、もう、戻らない。


 教会の中は、完全に、侵されている。




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