第23話 掴めない輪郭
眠れなかった。
理由は、いくつもある。
マルタのこと。
ルキウスのこと。
あの戦闘。
どれも頭から離れない。
だが、一番残っているのは、別のものだった。
ユリウスは天井を見つめていた。
暗い。
静かだ。
教会の中は、夜になると音が消える。
外の霧が、そのまま中に入り込んできたみたいに。
目を閉じる。
思い出す。
銃声。
血。
マルタの呼吸。
そして、あの女。
――アデル。
名前だけが残る。
それだけで、余計に分からなくなる。
どんな存在なのか。
何をしているのか。
なぜあそこにいたのか。
何一つ、繋がらない。
目を開ける。
寝るのを諦めて身体を起こす。
音を立てないように、ゆっくりと。
部屋を出て、廊下に出た。
冷たい空気。
人の気配はほとんどない。
夜の教会は、昼とは別の場所みたいだった。
足を進める。
理由はない。
ただ、じっとしていられなかった。
曲がり角。
誰かがいる。
気配で分かる。
ほんの一瞬だけ足を止める。
それから、角を曲がった。
そこにいたのは、レオンだった。
「……なんだ、起きてんのか」
軽く言う。
腕を組んで壁にもたれている。
「そっちこそ」
「寝れねえだけだ」
短く返す。
それ以上は説明しない。
ユリウスも聞かない。
少しだけ間が空く。
静かな時間。
だが、気まずくはない。
「……マルタは」
ユリウスが言う。
「死にはしねえ」
即答だった。
「ただ、しばらく動けねえな」
「……そうか」
それで十分だった。
それ以上の言葉は出ない。
また、沈黙。
今度は少し長い。
「……なあ」
ユリウスが言う。
迷いながら。
「ん?」
「アデルって」
名前を出した瞬間、レオンの目がわずかに動く。
ほんの一瞬だけ。
それでも、見逃せない変化。
「……ああ」
軽く返す。
それだけ。
「なんなんだ、あいつ」
率直に聞く。
他に言い方が思いつかなかった。
レオンは少しだけ考える。
時間は短い。
だが、答えを選んでいるのは分かる。
「……ああいうやつだ」
結局、それだった。
「それじゃ分かんないだろ」
「分かんなくていい」
あっさりと言う。
「無理に分かろうとすんな」
視線は前のまま。
「ろくなことにならねえ」
その言い方は、冗談じゃなかった。
ユリウスは言葉を失う。
否定できない。
でも、納得もできない。
「……お前は知ってるのか」
「いや」
短く答える。
それ以上は言わない。
聞いても無駄だとすぐに分かる。
ユリウスは小さく息を吐いた。
それで終わりだった。
会話は、それ以上進まない。
「……外、行くか」
レオンが言う。
気分を変えるように。
「……ああ」
ユリウスも頷く。
二人で歩く。
教会の外へ。
扉を開けると霧が広がっていた。
夜の空気。
冷たい。
静かだ。
何も見えない。
それでも、どこか落ち着く。
しばらく歩く。
言葉はない。
足音だけが、かすかに響く。
そのとき、ユリウスの視線が止まった。
前方。
霧の中。
人影。
ぼんやりとした輪郭。
足を止め、目を凝らす。
いる。
確かに。
レオンも気づいている。
だが、動かない。
構えもしない。
ただ、見ている。
影が、ゆっくりと動いた。
こちらに向かって。
やがて、輪郭がはっきりしてくる。
女。
見覚えがある。
あの姿。
ユリウスの喉がわずかに動く。
アデル。
名前が頭に浮かぶ。
だが、口には出なかった。
アデルは二人の前で止まった。
少しだけ首を傾ける。
「なに、こんな時間に」
軽い声。
昼間と変わらない。
自然すぎる。
「そっちこそ」
レオンが返す。
「散歩」
即答だった。
迷いもなく。
ユリウスは言葉を失う。
散歩。
それだけで済ませるのか。
さっきのことがあって。
「……へえ」
レオンはそれ以上突っ込まない。
知っているからか、諦めているのか。
「マルタ、やばかったね」
アデルが言った。
少しだけ真面目な声。
「死ななかっただけマシだな」
「まあね」
軽く頷く。
その言い方は、本当にそう思っているようだった。
ユリウスは見ていた。
目の前の女を。
さっきまで、あれだけのことをしていた存在。
なのに、今は普通に立っている。
違和感が消えない。
「……なに?」
アデルがユリウスに視線を向けた。
軽く笑った。
「そんな見られると、ちょっと照れるんだけど」
冗談めいた口調。
だが、逃げ場はない。
ユリウスは一瞬だけ言葉に詰まる。
それでも、視線は逸らさない。
「……なんで、あそこにいた」
結局、それだった。
聞いてしまう。
抑えきれずに。
アデルは少しだけ目を細めた。
ほんの一瞬。
それから、ふっと笑った。
「だから言ったじゃん」
肩をすくめる。
「騒がしかったから、行っただけ」
同じ答え。
何も増えない。
「……それだけか」
「それだけ」
即答だった。
それ以上はない。
ユリウスは黙るしかなかった。
それ以上聞いても意味がないと分かる。
アデルはくるりと背を向けた。
「じゃ、おやすみ」
軽く手を振る。
本当にそれだけ。
そのまま歩き出した。
霧の中へ。
止める理由も、言葉もない。
気づけば、もう見えない。
気配も、消えていた。
ユリウスはしばらくその場に立っていた。
何も言えない。
何も分からない。
ただ、一つだけ残る。
あれは、理解できるものじゃない。
それでも、目を離せない。
ユリウスはゆっくりと息を吐いた。
夜の空気が冷たい。
霧は、変わらずそこにある。
掴めないまま、ただ広がっていた。




