第22話 名前のある違和感
戻る道は、長く感じられた。
来たときと同じはずなのに。
霧は変わらず濃い。
視界も悪い。
だが、理由はそれだけではなかった。
「……しっかりしろ」
レオンの声が、低く響く。
肩に担いだマルタの身体が、わずかに揺れる。
軽くはない。
だが、重さよりも、その反応のなさのほうが気持ち悪かった。
呼吸はある。
かすかに。
だが、規則的ではない。
浅い。
不安定だ。
「……生きてる」
マルタが、かすれた声で言う。
目は開いていない。
それでも、意識はまだある。
「……分かってる」
レオンが短く返す。
それ以上は何も言わない。
ユリウスは隣を歩いていた。
何もできない。
ただ、ついていくことしか。
視線は、何度も後ろに向く。
さっきの場所。
あの空間。
もう何もないはずなのに、まだ何かがいる気がした。
「……見るな」
レオンが言う。
前を向いたまま。
「どうせ、もういねえ」
「……ああ」
ユリウスは答える。
だが、納得はしていない。
視線を前に戻す。
足を動かす。
それしかできなかった。
やがて、教会の輪郭が見えてきた。
白い壁。
霧の中でも、そこだけははっきりしている。
境界のように。
内と外を分ける線。
扉を押し開け、中に入った。
空気が変わる。
重さが、少しだけ抜ける。
それでも、完全には戻らない。
「――医療室へ」
誰かの声。
すぐに人が動く。
慌ただしくはない。
だが、速い。
正確だ。
担架が運ばれる。
マルタが移される。
その瞬間、小さく呻く。
「……っ」
わずかな反応。
だが、それだけで十分だった。
まだ、完全には壊れてはいない。
運ばれていく。
奥へ。
ユリウスは立ち止まる。
追いかけるべきか、迷う。
「来い」
レオンが言う。
短く。
迷いなく。
そのまま歩き出す。
ユリウスもついていく。
医療室。
白い空間。
薬の匂い。
布の擦れる音。
マルタが横たえられる。
手当が始まる。
服が切られる。
血が見える。
思ったよりも多い。
そして、深い。
「……これ、骨いってるな」
誰かが言う。
冷静な声。
「呼吸が浅い。内出血もひどい」
別の声。
淡々としたやり取り。
感情はない。
ユリウスは目を逸らさなかった。
逸らせなかった。
現実だった。
さっきまでの戦いの結果。
そこに、あの女が入ってきた。
足音は小さい。
だが、はっきりと分かる。
空気が、わずかに変わる。
「……間に合ったみたいだね」
軽い声。
さっきと同じ。
少しだけ安心したような、そんな響き。
マルタを一瞥する。
それだけで、状況を把握している。
「命は大丈夫そう」
ぽつりと呟く。
医療担当が一瞬だけ手を止める。
だが、すぐに再開する。
否定はしない。
その判断を。
「……来てたのか」
レオンが言う。
振り向かずに。
「たまたまね」
女が答える。
軽い口ぶりだ。
「ちょっと外、騒がしかったし」
「……助かった」
レオンが短く言う。
「でしょ?」
女はくすっと笑う。
軽い。
だが、どこか距離がある。
そのとき、扉が開いた。
司祭長が入ってきた。
静かな足取りだ。
状況を見る。
「……重傷ですね」
穏やかな声。
だが、その奥に重さがある。
「はい」
誰かが答える。
司祭長の視線が女に向く。
「アデル」
自然に呼ぶ。
当たり前のように。
その名前が、空気に落ちる。
ユリウスの意識が、そこに引っかかった。
アデル。
それが、この女の名前。
初めて聞く。
だが、なぜか違和感はない。
むしろ、それ以外など考えられないくらいに、ぴったりとはまった。
「今回は、助かりました」
司祭長が丁寧に言った。
「別に、頼まれたわけじゃないけどね」
アデルは肩をすくめる。
「見過ごせなかっただけ」
その言い方は、あまりにも自然だった。
だが、それ以上は言わない。
「それでも、です」
司祭長は静かに言う。
それ以上踏み込まない。
理解している。
その距離を。
ユリウスは、そのやり取りを見ていた。
分からない。
何も。
なぜ、この女がここにいて、なぜ、誰もそれを疑わないのか。
レオンも、司祭長も、当然のように受け入れている。
自分だけが、知らない。
「……あのさ」
気づけば、声が出ていた。
全員の視線が、一瞬だけ集まる。
ユリウスは少しだけ言葉に詰まる。
それでも、止まらなかった。
「……あんた、誰なんだ」
率直な問い。
それしか出てこなかった。
アデルは、一瞬だけ目を細める。
それから、ふっと笑う。
楽しそうに。
「ひどくない?」
軽く言う。
「命助けたのに、それ?」
冗談みたいな口調。
「……いや、そういう意味じゃ」
「まあ、いいけど」
言葉を遮る。
あっさりと。
気にしていないように。
少しだけ考える仕草。
わざとらしく。
「アデル」
自分を指で示す。
「それでいいでしょ」
それだけ。
それ以上はない。
ユリウスは言葉を失った。
それでは、何も分からない。
だが、それ以上聞ける空気でもない。
アデルは、もう視線を外していた。
興味が移ったようにマルタのほうを見ている。
ユリウスは黙るしかなかった。
胸の奥に、引っかかるものだけが残る。
名前は分かった。
だが、それだけだ。
それだけなのに、余計に分からなくなる。
ユリウスはゆっくりと息を吐いた。
教会の空気が、少しだけ重い。
いや、自分の中が変わっただけかもしれない。
外の霧は、変わらずそこにある。
だが、その内側にも、同じような曖昧さが広がっていた。




