第21話 成立しないもの
乾いた音ではなかった。
もっと鈍く、湿った破裂音。
空気を裂くというより“押し潰す”ような響きだった。
それが、夜の中に沈む。
匂いは、ない。
火薬の焦げた気配も、金属の冷たさもない。
ただ、わずかに鉄のような気配だけが残る。
ユリウスは、息を止めていた。
肺が動かない。
視界が狭まる。
目の前の光景だけが異様に鮮明だった。
ルキウスの腕から血が落ちる。
ゆっくりと、重たく。
それを、ルキウスは見ていた。
「……これは」
小さく呟く。
声に、ほんのわずかな揺れ。
ほんの一瞬だけ。
それでも、今までとは明らかに違った。
女は、動かない。
銃を向けたまま。
指先一つ、揺れていない。
ルキウスが顔を上げる。
その瞳に、はっきりとした“興味”が浮かぶ。
「……なるほど」
静かに言う。
口元が、わずかに歪む。
笑っている。
だが、さっきまでのそれとは違う。
「これは、興味深いな」
そう言った瞬間、空気が変わる。
圧が、増す。
ユリウスの喉がひりつく。
呼吸が浅くなる。
ルキウスが、一歩踏み出す。
音はしない。
だが、距離だけが、確実に詰まる。
同時に、女の指がわずかに動く。
その前に――
ほんの一瞬。
左胸の前で、指が小さく動いた。
触れるように。
なぞるように。
見逃せば気づかないほどの短い仕草。
そして、撃つ。
二発目。
音が沈む。
弾丸が空気を押し分け、一直線にルキウスへ向かう。
だが、当たる直前、ルキウスの身体が“ずれる”。
避ける。
だが、完全ではない。
肩を裂く。
血が、霧の中に溶ける。
それでも、止まらない。
むしろ、加速する。
「――っ」
ルキウスの動きが変わる。
速い。
ユリウスの身体が反応する。
危険だと理解するよりも先に、本能が警告を出していた。
ルキウスが、消える。
次の瞬間、女の目の前にいる。
距離が、ゼロになる。
手が伸びる。
触れる。
確実に。
――そのはずだった。
だが、届かない。
わずかに。
本当にわずかに、女の身体が引いている。
大きく避けたわけではない。
ただ、そこに“いない”。
そのズレが、すべてを狂わせる。
ルキウスの指先が、空を切る。
一瞬の静止。
その隙を、女は逃さない。
三発目。
至近距離で撃ち込む。
ルキウスの胸に、確実に当たる。
衝撃。
身体が、後ろに弾かれた。
霧が揺れる。
足が地面を削る。
それでも、倒れない。
止まらない。
ルキウスは立っている。
胸から血を流しながら笑っている。
「……素晴らしい」
息が少しだけ乱れる。
だが、笑っている。
心から。
「無駄がない。迷いもない」
一歩、踏み出す。
さっきよりも慎重に。
観察するように。
「……だけど」
ゆっくりと手を上げる。
今度は、躊躇なく。
一直線に。
指先で触れさえすれば――
女に触れる。
今度は、届く。
確実に。
その瞬間“流れ込む”。
恐怖。
痛み。
死。
あらゆる感覚が、一気に。
――流れ込むはずだった。
だが。
「……?」
ルキウスの動きが止まる。
違和感。
明確な。
何も、返ってこない。
空だ。
何もない。
深い水に手を突っ込んだような、感触のなさ。
「……これは」
初めて、困惑が混じる。
完全に、何も、ない。
恐怖も、痛みも、感情も。
返ってこない。
空白。
ただの“無”。
女は、何も変わらない。
呼吸も、視線も、心拍も。
何も揺れない。
ただ、そこにあるだけ。
“感情がない”わけではない。
だが、ルキウスが触れられるものではない。
もっと深い、別の場所にある。
「……成立していない」
ルキウスが呟く。
静かに。
はっきりと。
理解した。
この相手は“そういう対象ではない”。
味わえない。
壊せない。
楽しめない。
女は変わらない。
銃を向けたまま。
ただ、次を撃つ準備だけをしている。
ルキウスは、ゆっくりと息を吐く。
興味はある。
だが、違う。
これは、自分の遊びではない。
「……失礼しました」
頭を下げる。
本当に、礼を尽くすように。
「これは、おれの領分ではなかったようだ」
一歩、下がる。
距離を取る。
霧が、その姿を飲み込んだ。
「だけど――」
わずかに笑う。
「非常に、興味深い」
消えた。
完全に。
気配も、音も、完全に。
重く、冷たい静けさが戻った。
ユリウスは、動けなかった。
ただ、見ていた。
今のものを、理解しきれないまま。
女は、しばらく動かなかった。
銃を構えたまま、霧の奥を見ている。
やがて、ふっと息を吐く。
肩の力が、少し抜ける。
「……はぁ」
小さく、息混じりの声。
さっきまでとは違う、人間らしい音。
銃を下ろす。
くるりと振り返る。
そして、レオンたちを見る。
「ねえ、さすがにあれは聞いてないんだけど?」
軽い調子。
場違いなほどに。
少しだけ眉を下げて、困ったように笑う。
「こんなやばいの、いつから湧いてんの?」
まるで雑談みたいに言う。
マルタのほうに歩く。
しゃがむ。
傷を見る。
「……あー、これちょっとまずいかも」
軽く言う。
だが、手つきは正確だった。
「死ぬやつじゃないけど、普通に放置したら危ないね」
そう言いながら、立ち上がる。
ユリウスの横を通る。
一瞬、視線が合った。
「……あんた、初見であれはきついでしょ」
くすっと笑う。
ほんの少しだけ、楽しそうに。
「まあ、生きてるだけ偉いよ」
軽く言う。
それだけ。
それ以上は何も言わない。
また歩き出す。
何事もなかったみたいに。
だが、さっきまでの光景は消えない。
ユリウスはその場に立ち尽くしていた。
理解が追いつかない。
ただ、一つだけ分かる。
この女は――
“あっち側”だ。
自分たちとは、決定的に違う場所にいる。




