第24話 触れても壊れないもの
教会の中は静かだった。
普段と変わらない。
そう見える。
歩く者の足取りも、交わされる言葉も、何一つ崩れていない。
だが、それが逆に不自然だった。
マルタは奥にいる。
誰もそれを口にしない。
触れない。
知らない者には、何も起きていないように見える。
ユリウスは廊下を歩いていた。
行き先はない。
ただ、あの空気の中にいるのが少しだけ息苦しかった。
医療室の前を通った。
扉は閉じている。
中の音は聞こえない。
それでも、そこにあるものは分かる。
止まらない。
足を進める。
外に出る。
霧が広がる。
冷たい空気。
少しだけ、楽になる。
理由は分からない。
ただ、内側よりはましだった。
夜の街は静かだ。
人は少ない。
灯りも少ない。
それでも、完全に止まってはいない。
どこかで誰かが生きている。
その気配だけがある。
ユリウスは歩く。
目的もなく。
考えることもやめて、ただ、足を動かす。
そのとき、ふと足が止まった。
前方。
霧の中に、人影。
女だった。
ぼんやりとした輪郭。
だが、近づくにつれて、どこかで見たことがある気がした。
はっきりとは思い出せない。
けれど、完全に初めてではない。
そんな曖昧な感覚。
女がこちらを見た。
視線が合う。
その瞬間、向こうは迷わなかった。
「……こんばんは」
柔らかい声。
自然な挨拶。
まるで、最初から知っている相手に向けるように。
ユリウスは一瞬だけ遅れる。
「ああ……」
それから、少しだけ眉を寄せる。
「……前に、どこかで」
言いかける。
確信が持てないまま。
女は小さく笑った。
「ええ、少しだけ」
あっさりと認める。
それ以上は言わない。
説明もしない。
だが、それで十分だった。
記憶が、かすかに繋がる。
霧の中で、短く言葉を交わしたこと。
名前を名乗ったこと。
それだけの接点。
なのに、なぜか今は自然に話せている。
そのことのほうが、少し不思議だった。
「こんな時間に、外?」
女が言う。
問いかけ。
だが、詮索ではない。
「……まあ」
曖昧に答える。
それで十分だった。
女はそれ以上聞かない。
沈黙。
だが、気まずくない。
妙に落ち着く。
ユリウスは自分でも気づいた。
さっきまでの重さが、少しだけ軽くなっている。
理由は分からない。
ただ、この女と話していると無理がない。
「……君は」
ユリウスが言う。
少しだけためらって。
「ここに住んでるのか」
「ええ、まあ」
女は答えた。
曖昧に。
だが、それで違和感はない。
「長いのか」
「それなりに」
具体的なことは言わない。
だが、嘘にも聞こえない。
不思議だった。
何も明かしていないのに、隠している感じがしない。
「……名前、聞いてもいいか」
自然に出た言葉だった。
警戒はしていない。
ただ、知りたいと思った。
それだけ。
女は少しだけ考えるようにして、それから微笑んだ。
「セラフィナ」
その名前は、静かに落ちた。
違和感はない。
むしろ、しっくりくる。
「……ユリウスだ」
名乗る。
躊躇なく。
さっきまでなら少しは考えたかもしれない。
でも今は違った。
「知ってる」
セラフィナが言う。
さらりと。
「前聞いたから」
「……」
また沈黙。
だが、嫌じゃない。
むしろ、落ち着く。
ユリウスは空を見上げた。
何も見えない。
霧だけ。
「……疲れてる?」
セラフィナが言った。
唐突に。
だが、自然に。
「……そんな顔してるか」
「少し」
正直に答える。
「無理しないほうがいいよ」
押し付けではない。
ただの提案。
それが、妙に心に残る。
ユリウスは小さく息を吐いた。
さっきよりも深く。
「……そうだな」
言葉が、自然に出る。
考えずに。
セラフィナは少しだけ笑う。
満足そうに。
それ以上は何も言わない。
ただ、そこにいる。
それだけで、十分だった。
どれくらい時間が経ったのか分からない。
長くもなく、短くもない。
やがて、セラフィナが一歩下がる。
「じゃあ」
軽く手を振る。
「またね」
自然な別れ。
引き止める理由はない。
「……ああ」
ユリウスも頷く。
それだけで終わる。
セラフィナは歩き出した。
霧の中へ。
音もなく。
気配も薄く。
やがて、見えなくなる。
ユリウスはしばらくその場に立っていた。
さっきまでの重さは、少しだけ薄れている。
「……なんなんだ」
小さく呟く。
答えはない。
だが、アデルのときとは違う。
分からない。
でも、嫌じゃない。
むしろ、もう一度会ってもいいと思っている。
ユリウスはゆっくりと歩き出した。
教会の方へ。
霧の中を。
さっきよりも、少しだけ軽い足取りで。




