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第19話 守られていない場所

 夜は変わらず霧に沈んでいた。


 だが、教会から離れた街の空気はどこか違う。


 灯りが少ない。


 人の気配が薄い。


 それでも、生活は続いている。



 小さな店がひとつ、明かりを灯していた。


 木の扉。


 古びた看板。


 中には、数人の客。


 声は小さい。


 笑いも、控えめだ。


 外の霧を気にしているのか、それとも、もう慣れてしまったのか。



「……今日は静かだな」


 店主が言う。


 カウンター越しに、グラスを拭きながら。


「最近ずっとだろ」


 客の一人が返す。


 疲れた声。


「教会の見回りが増えたって話だ」


「ありがたい話だな」


 別の客が言う。


「……ああ」


 誰も続けない。


 それで会話は終わる。


 沈黙が落ちる。



 そのとき、扉が開いた。



 小さな音。


 全員が、わずかに視線を向ける。


 そこに立っていたのは一人の男だった。


 整った外套。


 濡れていない靴。


 霧の中から来たとは思えないほど綺麗なまま。



「……いらっしゃい」


 店主が言う。


 少しだけ警戒している。


 だが、追い返す理由もない。



 男は軽く頷き、ゆっくりと店の中へ入った。


 音がしない。


 床を踏んでいるはずなのに、響かない。


 カウンターに近づく。


 席に着く。



「何か温かいものを」


 穏やかな声。


 丁寧な言葉。


「……ああ」


 店主は頷く。


 手を動かす。


 いつもの動き。



 男は周囲を見回す。


 静かに。


 観察するように。


 その視線が、一人の女に止まる。


 端の席。


 外套を羽織ったまま、黙って座っている。


 視線を落とし、グラスに触れている。


 美しい。


 派手ではない。


 だが、整っている。


 男は、わずかに微笑む。



 店主が飲み物を置く。


「どうぞ」


「ありがとう」


 男はグラスを手に取る。


 一口だけ飲む。


 味わってはいない。


 ただ、口にしただけ。


 それから、立ち上がる。


「……?」


 誰かが小さく反応する。


 だが、男は何も言わない。


 そのまま、女の席へ向かう。


 歩く。


 ゆっくりと。


 迷いなく。



「……何か?」


 女が顔を上げる。


 少しだけ驚いている。


 だが、拒絶はしていない。


 男は微笑む。


「少し、お話を」


 それだけだった。


 自然な言葉。


 違和感はない。


 女は一瞬迷う。


 だが、頷く。


「……少しだけなら」


「ありがとう」


 男は席に着く。


 距離は近すぎない。


 だが、離れすぎてもいない。


 ちょうどいい位置。



 会話が始まる。


 小さな声で。


 内容は聞こえない。


 だが、空気は変わる。


 女の表情が、少しずつ緩む。


 警戒が解ける。


 目が、男を追う。


 声に反応する。


 笑う。


 自然に。



 店の他の客は、それを見ていない。


 気にしていない。


 ただの会話。


 それだけにしか見えない。


 時間が過ぎる。




 やがて、男が立ち上がる。


「少し、外に」


 女に向かって言う。


 柔らかく。


 断れない声。


 女は頷く。


 迷いはない。


 立ち上がる。


 二人で店を出る。



 扉が閉まった。


 また、静けさが戻る。


 誰も何も言わない。




 霧の中。


 外は白い。


 何も見えない。


 音もない。


 男は歩く。


 女もついていく。


 自然に。


 疑いもなく。


 やがて、人気のない路地に入る。


 そこで、男は止まる。


 振り返り、女を見る。



「……ここでいいかな」


 穏やかな声。


 女は微笑む。


 完全に、警戒を失っている。


「どうしたの?」


 その言葉が、最後だった。



 次の瞬間、空気が変わる。


 男の手が伸びる。


 触れる。


 それだけで、女の身体が震える。


 目が見開かれる。


 理解が追いつかない。


 ただ、恐怖する。


「――あ、」


 牙が突き立てられる。


 声が出ない。


 喉が詰まる。


 身体が動かない。


 すべてが、奪われる。



 男――ルキウスは、静かに目を閉じる。


 味わうように。


 血液とともに流れ込む。


 恐怖。


 絶望。


 理解。


 すべてが一気に。


「……やっぱり」


 小さく呟く。


「美しいね」


 心からそう思っている声。



 女の力が抜ける。


 崩れる。


 静かに、音もなく。


 ルキウスは手を離す。


 名残惜しむように。



 それから、女の顔を見る。


 もう何も残っていない。


 空っぽだ。


 だが、それでいい。



「完璧ではないけど」


 小さく呟く。


「十分だね」


 それだけだった。


 ルキウスは立ち上がる。


 外套を整える。


 何もなかったかのように、霧の中へ歩き出す。


 振り返らない。


 迷いもない。


 その背中は、あまりにも自然だった。



 路地には、倒れた女だけ。


 他には何も残らない。


 音も。


 気配も。


 叫びも。


 ただ、霧だけが残る。


 そして、すぐにすべてを覆い隠す。





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