第15話 測れるもの、測れないもの
教会の中は変わらない。
白い壁。
整った空気。
揃えられた動き。
だが、その奥にわずかな緊張が走っていた。
誰も声に出さない。
だが、全員が感じている。
何かが、一段変わったと。
ユリウスは廊下を歩く。
足取りは重くない。
だが、軽くもない。
昨夜のことが、頭から離れなかった。
ルキウス。
あの男の声。
視線。
そして、あの“楽しんでいる”感覚。
思い出すだけで、わずかに息が詰まる。
「……来たか」
レオンが声をかける。
扉の前に立っていた。
その先は、あの部屋だ。
何も言わずに、扉を押す。
中に入る。
そこには、いつもの面々が揃っていた。
エリアス。
マルタ。
そして、司祭長。
空気が、少しだけ違う。
いつも通り整っている。
だが、わずかに張り詰めている。
「報告を」
司祭長が静かに言う。
促すだけ。
強制ではない。
それでも、逆らえない。
レオンが一歩前に出る。
「外周、西側。接触あり」
短く言う。
「対象は単独。逃走」
「特徴は」
司祭長が問う。
レオンは少しだけ間を置く。
「……弱いやつらとは違う」
言葉を選んでいる。
「ただ血を求めてる感じじゃない。なにか目的がある」
その一言が、空気を変える。
エリアスがわずかに視線を動かす。
マルタの表情は変わらない。
だが、わずかに呼吸が深くなる。
「具体的には」
司祭長は続ける。
穏やかなまま。
「……人間みたいだった。血を飲むことが目的じゃない」
レオンが言う。
「挑発もするし、余裕もある」
そこで一度、言葉を切る。
「それと」
わずかに視線を落とす。
「……人の恐怖を楽しんでる」
その言葉に、誰もすぐには反応しなかった。
理解するための、わずかな間。
「感覚の共有、ですか」
エリアスが小さく呟く。
独り言のように。
だが、確信に近い響き。
ユリウスはその言葉に反応する。
「……分かるのか」
思わず口にする。
エリアスはユリウスを見る。
やわらかい表情のまま。
「いくつか、類似する記録があります」
落ち着いた声。
「恐怖や痛覚を媒介に、対象と接続する個体」
淡々と説明する。
まるで、事務的な報告のように。
「極めて稀ですが、存在は確認されています」
その言い方が、逆に重かった。
珍しい。
だが、存在している。
「……対処は」
マルタが言う。
短く。
必要なことだけを問う。
司祭長は、少しだけ考える。
ほんのわずかに。
「現状の対応を維持します」
静かに答える。
「ただし、接触時は無理をしない」
視線がレオンに向く。
「深追いは不要です」
その言葉には、明確な意図があった。
「……了解」
レオンは頷く。
反論はしない。
だが、納得しているかは分からない。
「こちらで把握できている範囲では」
司祭長が続ける。
「個体差の範囲を逸脱しているわけではありません」
その言葉は冷静だった。
感情はない。
「ですが」
一拍置く。
「観測は必要です」
それだけだった。
過剰でもなく、軽視でもない。
ちょうどいい位置。
「……了解しました」
エリアスが頷く。
マルタも同様に。
流れは止まらない。
すべてが、適切に処理されていく。
そのときだった。
ユリウスは、ふと視線を動かす。
部屋の端。
そこに、一人の女がいた。
見覚えのある女。
名は知らない。
だが、一度見たら忘れない類の顔だ。
壁にもたれている。
少し気だるそうな姿勢で。
話には参加していない。
だが、聞いてはいる。
その視線が、一瞬だけ揺れた。
ほんのわずかに。
他の誰も気づかないほどに。
ユリウスだけがそれを見た。
次の瞬間には、元に戻っている。
何もなかったように。
軽く、視線を逸らす。
興味がないかのように。
ユリウスは何も言わなかった。
言えなかった。
今のが何だったのか、分からない。
ただ、見てはいけないものを見た気がした。
「以上です」
司祭長が言う。
それで、話は終わった。
誰も引き止めない。
必要なことは、すべて済んでいる。
部屋を出て廊下に戻る。
空気が、少しだけ軽くなった。
「……どう思う」
レオンが言う。
いつもの問い。
だが、少しだけ違う重さ。
「……分からない」
ユリウスは答える。
正直に。
「ただ」
一度、言葉を切る。
「今までと同じじゃない」
それだけは、はっきりしていた。
レオンは小さく笑う。
「そりゃそうだ」
軽く言う。
だが、その目は笑っていない。
「でもな」
続ける。
「それでも、ここは回る」
教会のほうを見る。
白い壁。
変わらないもの。
「そういう場所だ」
その言葉に、ユリウスは何も言えなかった。
正しいのかもしれない。
だが、それだけでは足りない気もする。
窓の外を見る。
霧が、さらに濃くなっていた。
もう、遠くは完全に見えない。
それでも、教会の輪郭だけは、はっきりしている。
守られているのか。
それとも、閉じられているのか。
分からないまま。
ただ、霧だけが濃くなっていった。




