第103話 やさしさの輪郭
祈りの時間だった。
静かな空間。
人は少ない。
灯りだけが揺れている。
司祭長は、そこに立っていた。
いつも通りの整った姿、揺れのない声。
「本日も、感謝を」
穏やかに言う。
祈りが始まる。
誰もが目を閉じる。
静寂。
その中で、司祭長だけは目を閉じていなかった。
前を見ている。
それに、誰も気づかない、気にしようとさえ思わない。
祈りが終わる。
人が少しずつ散っていく。
残ったのは、静かな空気。
静かな礼拝室に足音が響いた。
エリアス。
司祭長は軽く頷いた。
「イレーネは回収されましたか」
「はい。構造側によるものと推定されます」
簡潔に答える。
「そうですか」
穏やかな声。
感情は乗らない。
「問題はありません」
そう、迷いなく続ける。
「構造側が処理するのであれば、我々が関与する理由はありません」
合理的な判断だ。
エリアスは静かに頷いた。
「ただ、ユリウスとレオンの心理状態に若干の乱れが見られます」
「そうでしょうね」
あっさりと返す。
予測済みの事象。
「支障が見られますか?」
「現時点では行動への影響は軽微です」
「ならば問題ありません」
即答。
エリアスは、それ以上何も言わなかった。
司祭長は、少しだけ視線を落とし、考えた。
「彼らはまだ“正しさ”に慣れていない」
静かに言う。
エリアスが、わずかに目を細める。
「慣れる必要が?」
「あります」
即答。
「でなければ、守れない」
その言葉は、とても静かで、とても強い。
エリアスは納得するように頷いた。
「了解しました」
それで終わる。
エリアスが去り、足音が消えると再び静寂が落ちた。
司祭長は一人、しばらく動かなかった。
そのまま、視線は前を向いたまま、ゆっくりと椅子に腰を下ろした。
「……守る、か」
小さく呟く。
その声は、ほんの少しだけ、温度が違った。
「ずいぶんと、不完全な言葉です」
誰も聞いていない。
だから、言葉がそのまま出る。
「救われなかったものがある以上、それは、まだ足りない」
指先が、わずかに動く。
机の上に置かれた小さな装置。
金属に刻まれた紋様に触れると、ほんの一瞬だけ、空気が歪んだ。
手を離すと、何もなかったようにすぐに戻った。
「……だから」
静かに言う。
「届くところまで、届かせましょう」
穏やかに微笑む。
その表情は、いつも通り。
優しく、敬虔な司祭の表情。
ただ、ほんの少しだけ、狂っていた。




