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第10話 触れてはいけないもの

 霧は明らかに濃くなっていた。


 ここ数日で、少しずつ。


 誰も口には出さない。


 だが、全員が気づいている。


 視界が悪い。


 音が鈍る。


 距離感が狂う。



 それでも、教会の中だけは変わらない。


 白い壁。


 整った空気。


 規則正しい動き。


 そこだけが、切り離されたように保たれている。



「……外、やばいな」


 レオンがぼそりと言う。


 珍しく軽さがない。


「見回り、増えてる」


「司祭長の判断だ」


 マルタが答える。


 短く、無駄のない言葉。


「まだ問題ない範囲だが、放置はしない」


 その言い方に迷いはない。


 信じているからではない。


 理解しているからだと分かる。



「行くぞ」


 マルタが歩き出す。


 三人は教会の外へ出た。


 霧が、すぐそこまで来ていた。


 境界が曖昧になる。


 どこからが“外”なのか、一瞬だけ分からなくなる。



 通りを進む。


 人の数は少ない。


 昼間よりも、さらに減っている。


 店も、半分以上が閉まっていた。


 それでも、完全に消えたわけではない。


 誰かがいる。


 どこかにいる。


 そんな気配だけが残る。



「……またか」


 レオンが低く言う。


 その視線の先に、人影があった。


 倒れている。


 動かない。


 近づく。


 若い男だった。


 息はある。


 だが、弱い。


 首元に、はっきりとした痕がある。



「噛まれてる」


 マルタがしゃがみ込む。


 確認する。


 その動きは変わらない。


「……まだいけるか」


 レオンが言う。


「分からない」


 マルタが答える。


「だが、ここに置いておく選択はない」


 二人が男に手をかける。



 そのときだった。


 霧の奥で、何かが動いた。


 気配だけが先に来る。


 音はない。


 ただ、そこにいると分かる。


「……来るぞ」


 レオンが言う。


 低い声。


 即座に距離を取る。


 マルタも立ち上がる。


 刃を抜く。



 霧が揺れる。


 その中から、影が滑り出てくる。


 人の形。


 だが、動きが違う。


 速さも、間も、どこか噛み合っていない。


 目が合う。


 暗い。


 底が見えない。



 次の瞬間、それは動いた。


 一直線に、男へ。


 迷いがない。


 奪うための動き。



 マルタが前に出る。


 刃が振られる。


 だが、届かない。


 影のほうが、わずかに速い。



「――ちっ」


 レオンが舌打ちする。


 間に合わない。



 そう思った瞬間だった。


 ――湿った音が、ひとつ。


 空気を押しつぶすような響き。


 遅れて、何かが弾ける。


 影の動きが止まる。


 不自然なほどに。



 次の瞬間、その身体が、崩れた。


 霧の中に、散る。


 残ったのは、ただの静けさだった。


 誰も動かない。


 一瞬だけ、時間が止まる。



 ユリウスは音のした方を見る。



 そこに、一人の女が立っていた。


 白い肌。


 長い金の髪。


 灯りの中でも、その色だけがはっきりしている。


 片手に、銀の銃。


 煙が、細く上がっていた。



「……遅い」


 女が言う。


 軽い口調だった。


 責めるような響きはない。


 ただ、事実を言っているだけの声。


 マルタがわずかに眉を寄せる。


「……お前か」


「たまたま通りかかっただけ」


 あっさりと返す。


 嘘かどうかは分からない。


 気にしていないようにも見える。



 女はゆっくりと歩み寄る。


 倒れている男を一瞥する。


「まだ生きてる?」


「かろうじてな」


 レオンが答える。


「なら運べば」


 興味がないような言い方だった。


 それでいて無視もしていない。



 女は銃を下ろす。


 そのとき、ほんの一瞬だけ、左胸の前で指が動いた。


 小さく、十字を切る仕草。


 誰も指摘しない。



「……助かった」


 レオンが言う。


「別に」


 女は肩をすくめる。


「仕事でしょ」


 軽く言う。


 その言い方に違和感はない。


 むしろ自然だった。



「……戻るぞ」


 マルタが言う。


 それで場は終わる。


 誰も深く触れない。


 女もそれ以上関わらない。


「じゃあね」


 軽く手を振る。


 そのまま、霧の中へ歩いていく。


 止める者はいない。


 振り返る者もいない。


 気づけば、もう見えなくなっていた。




 三人は男を運び、教会へ戻る。


 霧が背後で揺れる。


 境界が、また曖昧になる。


 ユリウスは何も言わなかった。


 ただ、ひとつだけ残る。


 あの一瞬。


 動き。


 音。


 そして、あの仕草。



 ――何だ、あれは。



 答えは出ない。


 出る気もしない。


 それでも、確かに分かることがある。


 あれは、今まで見てきたものとは違う。


 同じ場所にいるのに、まったく別の存在。


 触れてはいけないものに、ほんの少しだけ触れてしまったような感覚。



 教会の灯りが見えてくる。


 白い壁。


 変わらないはずの場所。


 なのに、その内側に何かが混ざっている気がした。


 ユリウスは視線を落とす。


 霧が、さらに濃くなっていた。


 見えないものが増えていく。


 それでも、目を逸らすことはできなかった。




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