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第11話 関わるということ

 朝の空気は少しだけ重かった。


 霧が昨日よりも濃い。


 窓の外は白く霞み、遠くの建物はほとんど見えない。


 それでも、教会の中は変わらなかった。


 同じ時間に鐘が鳴り、同じように人が動く。


 何も変わっていないように見える。



 だが、ユリウスの中では、確実に何かが変わっていた。



 食堂に入る。


 席に着く。


 いつもの光景。


 だが、落ち着かない。


 誰かと目が合っても、その顔が一瞬だけ分からなくなる。


 すぐに思い出せる。


 だが、その一瞬が消えない。




「……ぼーっとしてるな」


 向かいからレオンの声。


「してない」


「してる」


 即答だった。


 軽い調子。


 それでも、少しだけ視線が鋭い。


「昨日のやつ、引きずってるか」


「……別に」


「そうかよ」


 それ以上は踏み込まない。


 いつも通りの距離。


 だが、完全に無関心でもない。


 ユリウスは食事に手をつける。


 味は変わらない。


 だが、それすら少し遠く感じる。



「あとで来い」


 レオンが言う。


「どこに」


「外」


 それだけだった。


 説明はない。


 だが、断る理由もなかった。


 食事を終える。



 外に出る。


 霧が、すぐそこにある。


 距離が近い。


 触れられそうなほどに。


 レオンはすでに外壁にもたれていた。


「来たな」


「何するんだ」


「ちょっとな」


 曖昧な返事。


 歩き出す。


 ユリウスもついていく。


 教会の周囲を離れる。


 少しずつ、人の気配が減る。


 音も、遠くなる。



「……いいのか」


 ユリウスが言う。


「何が」


「勝手に動いて」


 レオンは小さく笑う。


「勝手じゃねえよ」


「じゃあなんだ」


「必要なことしてるだけ」


 それだけだった。


 だが、否定できる言い方ではない。



 しばらく歩く。


 霧がさらに濃くなる。


 足元が見えにくい。


 方向感覚が曖昧になる。



「……このへんだな」


 レオンが止まる。


 周囲を見回す。


「何がある」


「昨日の“残り”だ」


 その言い方に、少しだけ引っかかる。


 だが、意味は分かる。


 ユリウスも周囲を見る。


 何もない。


 ただの路地。


 誰もいない。


 静かすぎるくらいに。



 そのとき、視界の端で何かが揺れる。


 人影。


 霧の中に、ぼんやりと浮かぶ。


「……あれか」


 ユリウスが言う。


 レオンは答えない。


 ただ、わずかに息を整える。


 距離を詰める。


 ゆっくりと。


 音を立てないように。



 近づくにつれて輪郭がはっきりしてくる。


 人だ。


 ――いや。


 一瞬、そう見えただけかもしれない。


 立っている。


 こちらを見ている。


 そのはずなのに、どこか定まらない。


 男に見える。


 違う。


 女だ。


 いや、さっきと、違う。



「……動くな」


 レオンが小さく言う。


 その声は低く、いつもよりも明確だった。


 ユリウスは止まる。


 呼吸を抑える。


 それは、ゆっくりとこちらに歩み寄る。


 足音がしない。


 霧の中を滑るように。



「……こんにちは」


 静かな声。


 柔らかい。


 だが、どこか違和感がある。


 高さが定まらない。


 男にも聞こえるし、女にも聞こえる。



「……誰だ」


 ユリウスが言う。


 それは少しだけ首を傾げる。


「ひどいですね」


 微笑む。


 その表情に違和感はない。


 むしろ自然すぎる。



「この前、お話ししたばかりなのに」


 その言葉に、ユリウスの背筋が冷える。


 思い出せない。


 そんなはずはないのに。


 確かに、会った気がする。


 話した気がする。


 だが、何も思い出せない。



「……レオン」


 小さく呼ぶ。


 レオンは動かない。


 ただ、視線を外さない。


「……下がれ」


 低く言う。


 それはわずかに視線を向ける。


 その仕草すら、さっきと違う気がする。



「邪魔をしないでください」


 穏やかな声。


 怒りはない。


 ただ、目的があるだけの響き。


 その視線がユリウスに向く。



「あなたは、何を覚えていますか」


 同じような問いを受けたような気がする。


 いつだったかと同じ。


 だが、今回は違う。


 もっと近い。


 もっと深い。


 意識が引き込まれる。


 思い出そうとする。


 自分のこと。


 来る前のこと。


 名前。


 顔。


 全部が、少しずつ遠くなる。




「……やめろ」


 レオンの声。


 その瞬間、空気が揺れる。


 それの輪郭がわずかに崩れる。


 ほんの一瞬、別の姿が重なった気がした。


 だが、確かめる前にそれは霧に溶けた。


 最初から存在しなかったみたいに。


 静けさが戻る。


 何もない。


 ただ、霧だけが残る。



「……くそ」


 レオンが小さく舌打ちする。


「今の……」


 ユリウスは言葉を探す。


 だが、出てこない。


 記憶が、曖昧になる。


「……思い出せるか」


 レオンが聞く。


「……いや」


 そう答えるしかなかった。


 それしか分からない。


 レオンはしばらく黙っていた。



 それから、


「戻るぞ」


 短く言う。


 二人で歩き出す。


 来た道を戻る。


 霧が、少しずつ薄くなる。



 教会が近づく。


 白い壁が見える。


 その輪郭だけは、はっきりしている。


 ユリウスは歩きながら考える。


 何かを忘れている。


 確実に。


 だが、何を忘れたのかが分からない。


 それが一番、気持ち悪かった。



「……なあ」


 ユリウスが言う。


「なんだ」


「俺、あれ……男だったか」


 レオンは少しだけ間を置く。


「……どっちでもいい」


 短く答える。


「そういうもんだ」


 それ以上は言わなかった。


 ユリウスも聞かなかった。


 聞いても、答えは変わらない気がした。



 教会の中に入ると空気が変わる。


 静けさが戻る。


 それだけで、さっきまでのことが少し遠くなる。


 だが、完全には消えない。


 胸の奥に、引っかかるものが残る。



 ユリウスは足を止め、振り返った。


 霧の向こうに、何かがいる気がした。


 確かめることはできない。


 ただ、そこにあるような気がするだけ。


 やがて、視線を外す。


 何も言わずに歩き出す。


 そのとき、はっきりと分かった。


 ――もう、見ているだけではいられない。


 それだけが、確かだった。





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