第8章3話 変化の追憶
夕暮れの長野は、
昼と夜の境目がはっきりしない。
山の稜線が少しずつ影を深め、
空はまだ淡く明るいまま、
風だけがひんやりとしている。
守山謙一郎は、
駅から少し離れた小さな蕎麦屋の前で、
腕時計を見た。
「……そろそろ、だな」
「待たせたか?」
振り返ると、
そこには明らかに場違いな男が立っていた。
ラフなシャツに、
長旅の名残を残したリュック。
この土地にはまだ馴染みきらない佇まい。
フィン・モーガンだった。
改めてじっくり見ると、
海外の有名俳優に似ている気がしなくもないが、それは本人には黙っておくことにした。
「そんなに見つめるなよ」
「いや。
長野にしては派手なやつが来たな、
と思っただけだ」
「失礼だな。
オーストラリアじゃ、これでも控えめなんだぞ」
二人は顔を見合わせ、
同時に笑った。
謙一郎が選んだ店に入り、
蕎麦と酒を頼む。
木の香りが残る店内は静かで、
外の出来事がすべて遠く感じられた。
「……で、元の生活はどうだ?
ジョディさんとはうまくいっているのか?」
謙一郎が切り出す。
再チェンジリング後も、お互いの言語を学び合い、今では日本語でも英語でも会話できるようになっていた。
「あぁ。聞いてくれよ。
君がくれたチャンスを、ちゃんと掴んだ。
いまは一緒に旅行にも行ってる。
息子たちともだ」
「それは良かった。
日本に戻ってからも、ずっと気になってたんだ。
ちゃんと素直になれたんだな」
「感謝してるよ。
……いや、感謝“だけ”じゃないな」
フィンは苦笑する。
「君のせいで、
狂った日本の武道をやらされる羽目になったときは、本気で呪った。
あれはスポーツじゃない、精神修行だ」
「とか言いながら、
いまでもシドニーの剣道クラブに顔出してるの、知ってるぞ」
「……バレてたか。
なんだか、やめられなくてな。
ついに俺もサムライになる日が来たのかもしれない」
真剣な表情で言うフィンをみて、
謙一郎が静かに笑う。
「俺だって、君――いや、
君だけじゃなくて、
オーストラリアには言いたいことが山ほどあるぞ」
「なんだ、いきなり。
オーストラリアは最高だっただろ?」
自信満々に、フィンが答える。
「いや、まあ、素晴らしかったのは認める。
だが、言わせてくれ。
まず第一に、すべてのスケールが大きすぎる」
「ほう?」
「道路や建物、家具もそうだが、
俺が本当に驚いたのは、動物だ」
「動物?コアラとか、カンガルーとか、
可愛いだろ?」
謙一郎は首を横に振る。
「違う。
その辺にいる鳥だ。
なんだ、あの異様なデカさは。
足がやたら長いやつもいたし、
普通に人を追いかけてくるだろ」
「あぁ、あいつらか。
可愛いじゃないか」
「今となっては、多少はな。
だが初めて見たときは、
本気で化け物かと思った。
しかも、普通に道端にいるんだぞ。
怖すぎる」
フィンは腹を抱えて笑っている。
「そして第二に、
パーティの多さだ。
なぜ、なんでもない日にパーティをする?」
「仕方ないだろ。
俺たちはみんな、パーティが好きなんだ。
日本人が仕事帰りに飲みに行く感覚が、
俺たちにはパーティなんだよ」
「いや、同じ感覚にしないでほしい。
そして第三に——」
その後、
謙一郎の演説は三十分ほど続いた。
フィンは途中から相槌を打つだけの
機械と化していたが、
二人とも、明らかに楽しそうだった。
「……まあ、色々言ったが」
謙一郎は最後に言った。
「それでも、
オーストラリアも、君も、
君の家族も、隣人も、
俺は好きだけどな」
「おっ。
それが聞ければ十分だ」
二人はグラスを合わせた。
少し間を置いて、
フィンが言う。
「そういえば、
そっちだってサーフィンしてるって聞いたぞ」
「風の噂が早いな。
まぁ、せっかく体験したんだし、
続けるのも悪くないかなと思って」
「そこはさ、
『波が俺を呼んでいた』とか、
もっと格好いいこと言えよ」
「いやぁ。
あれだけのことがあっても、
根っこの性格までは変わらないらしい」
「まぁ、それも君らしいな。悪くない」
フィンはそう言って、
グラスを傾けた。
「なぁ……それにしてもさ」
少し声を落として、フィンが続ける。
「結局、
あれは何だったと思う?」
謙一郎は少し考え、
首を振った。
「分からない。
一応、調べられるだけ調べたが、
それらしい情報は何もなかった。
もちろん、同じ事例も存在しない」
「だよな」
しばらく沈黙が落ちる。
蕎麦をすする音だけが、
やけに大きく聞こえた。
答えは出ない。
いや、
最初から出るはずがなかったのかもしれない。
それでも二人は、
この話を、
ここで終わらせる気はなかった。




