第8章1話 変化の痕跡 (日本)
山々が、淡い光の中に浮かび上がっていく。
初夏の長野に訪れる朝は、
夜の名残をやさしくほどきながら始まる。
まるで世界そのものが、
黒い幕を引き上げ、
静かに息をし直しているかのように。
守山謙一郎は、自宅の窓辺に立ち、
太陽の光を浴びてきらきらと輝き始めた
山の稜線を、ぼんやりと眺めていた。
再チェンジリングから、
一か月が経っていた。
まるでこの半年が夢だったかのように、
日常は当たり前の顔をしてやってきて、
当たり前の速度で過ぎていく。
だが、少しだけ変わったこともある。
まず、早苗だ。
半年前までは、
まるでブラジルまで飛んで行ってしまったかのように遠く感じていた妻のやさしさが、
元に戻ってからは不思議と
沖ノ鳥島——いや、
意外と香川県くらいの大きさに
感じられるようになっていた。
自分の捉え方や、感じ方が
変わったせいもあるのだろう。
だがそれだけではなく、
早苗自身もほんの少し変わったように思えた。
フィンに変えられてしまったことに、
ほんのわずかな悔しさと、
正直なところ、嫉妬も感じている。
それでも、いまの早苗を歓迎している
自分がいることに、謙一郎は気づいていた。
少し前に、剣道仲間の佐伯に、
妻の態度の変化について話したことがある。
「それは、守山先生ご自身が
変わったからだと思いますよ」
そう言われたが、
何がどう変わったのかは、
自分ではよく分からなかった。
思えば、こちらに戻ってきてから、
周囲に"変わった"と言われることが
少しずつ増えている。
もちろん、
つい最近まで完全に別の人物が
自分の人生を生きていたのだから、
再チェンジリング前と今とでは、
多少なりとも違って見えるのは当然だ。
だが、
それだけではないようだった。
長年積み重ねてきた
"守山謙一郎"という人物像と、
いまの自分とが、
ほんのわずか、変化しているようだ。
自分自身には、
何かが大きく変わったという
はっきりした実感はない。
ただ、半年ほどシドニーに飛ばされ、
別の人物として、
別の人生を生きてきただけだ。
特別な能力を手に入れたわけでもない。
人生観を覆すような圧倒的な人物や、
宗教に出会ったわけでもない。
それでも——
みんなが変わったと言うのなら、
何かは、確かに変わったのだろう。
しかもそれは——
おそらく、悪い変化ではない。
—— —— ——
診療を終え、
いつもの稽古へ向かった。
剣道の方も、
どういうわけか調子がいい。
戻ってから何度か稽古があったが、
身体というより、心が妙に軽い。
無駄な力が入らず、
自然体で稽古ができている。
以前は昇段のことばかりが頭にあり、
気持ちが重く、正直、稽古に行くのが
つらい日も多かった。
剣道そのものを
楽しむ余裕を失っていたのだ。
だが、この一か月の稽古は、
久しぶりに、純粋に、楽しかった。
道場に着くと、
佐伯が声をかけてきた。
「守山先生、こんばんは。
いよいよですね」
——ん?
いよいよ、ってなんだ?
疑問をそのまま口にする。
「こんばんは。
えーっと……いよいよって、何でしたっけ?」
佐伯は一瞬ぽかんとしたあと、
にやりと笑った。
「またまた。
そんなとぼけちゃって。
余裕なんですね、段審査」
——あ。
完全に忘れていた。
たしかに、再チェンジリング後、
半ば強制的に師範に
申し込み用紙を書かされた覚えがある。
おまけにフィンもフィンで、
ちゃっかり段審査のための
講習会にまで出席してくれていた。
受けるだけなら、
準備は万端だったわけだ。
「あ、あぁ……今回も……」
言いかけて、やめる。
後ろ向きな発言が
口をつきそうになった。
だが、
心の中のオーストラリア人が
それを止めた。
——いや、
誰だよ、心の中のオーストラリア人って。
まあ、
今は気にしないでおこう。
「あ、あぁ。
今回こそは合格してみせますよ。
がんばります」
「いやー、いいですね、そのやる気。
僕も負けていられません。
頑張りましょう」
こんな前向きな言葉を
自然に口にできたのは、
初めてかもしれない。
だが、不思議と——
悪くなかった。
その日の稽古も、
満足のいく出来だった。
師範にも、
小さくうなずいてもらえた。
あとは、
当日を迎えるだけ。
—— —— ——
そして、段審査当日。
体育館の床は、
いつもより少しだけ冷たく感じた。
朝の空気が、まだ残っているのだろう。
謙一郎は竹刀を手に取り、
軽く握り直す。
不思議なことに、
緊張はほとんどなかった。
これまでなら、
失敗しないだろうか、
打たれてしまうんじゃないか、
本当に合格できるのだろうか、
いや、俺にはまだ早いのではないか——
そんな後ろ向きな考えが
頭の中を占領し、
呼吸まで浅くなっていたはずだ。
だが今日は違う。
ただ、
自分の剣道を見せる。
それだけだった。
番号を呼ばれ、
中央に進み出る。
礼。
構える。
相手の気配が、
静かに伝わってくる。
——ああ、見える。
そう思った。
速さでも、
力でもない。
間合いと呼吸が、
自然に合っていく。
無理に打とうとしない。
がむしゃらに
勝とうともしない。
ただ、相手の動きを見て、
自然と身体が動く。
わずかな足さばきや
呼吸の変化に、
身体が反応する。
無理はしない。
だが、迷いもない。
身体が、
すっと前に出る。
——これでいい。
そう思えた瞬間だった。
最後まで、
力が入ることはなかった。
終わって礼をし、
下がる。
心臓はきちんと
脈を打っているが、
息は乱れていない。
「……悪くなかったな」
自分でも、
そう思えた。
発表までの時間は、
これまでになく短く感じられた。
合格者の番号が張り出される。
垂れに書かれた自分の番号を確認し、
もう一度、紙を見つめる。
受験者数に対して、
明らかに少ない番号。
合格率は、二割ほどだろうか。
左上から順に、
番号を追っていく。
「あ……あった」
いや、
見間違いかもしれない。
もう一度、
自分の番号と
合格者番号を見比べる。
やはり、ある。
隣で佐伯が、
小さく息を吸い、
こちらを見る。
「……守山先生」
その目が、
すべてを語っていた。
七段。
合格。
派手な感情は、
湧かなかった。
ただ、胸の奥に、
静かで確かな実感が
落ちてくる。
——ああ、合格した。
それだけだった。
体育館を出ると、
初夏の光が、思ったよりもやさしかった。
空は高く、
広い。
星は見えない。
だが、それでいいと思えた。
謙一郎は、
防具袋を肩にかけ、
小さく息を吐く。
「さて……帰るか」
日常は続く。
だが、
そこに立つ自分は、
もう違っているようだった。




