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第7章6話 変調のあと (日本)

五月の長野の朝は、

空気がまだひんやりとしている。

だが、山の輪郭は澄んだ光の中でくっきりと浮かび、春が終わりかけていることを、

音もなく告げていた。


謙一郎は、日本に、長野に、

戻ってこられたこと、

そして何より、妻の早苗が自分を

"守山謙一郎"として認識していることを

心から喜んでいた。


朝食も、一噛み一噛み、

確かめるように味わって食べる。

半年前までは当たり前だったことが、

いまはこれほど愛おしく、

大切で、ありがたいものだったのだと、

改めて思い知らされる。


「いつまで食べてるのよ。仕事、遅れるわよ」


早苗の小言ですら、懐かしくうれしい。

小言を言われながら思わずにやけているところを見られ、気味悪がられたが、

どうやらやめられそうもなかった。


慌てて表情を引き締め、

仕事へ行く準備をする。


通勤路には、新緑が青々と伸び、

花々がきれいに咲いていた。


入れ替わる前は、たしか十一月。

木々は葉を落とし、

枝ばかりが目立つ、寂しい風景だったはずだ。


だが今は、まるで真逆だ。

その景色は、

自分の内側を映しているようにも思えた。


信号待ちの間、ふと歩道に目を向ける。

小さくて、ちょこちょことした動きの動物がいた。


——スズメだ。


これまで気にも留めてこなかったが、

こうして見ると、やけに可愛らしい。


ただ、

どこか物足りなさも感じていた。

ボリュームというか、

スケールというか。


——すっかり、あっちの動物たちに

慣れてしまったな。


謙一郎は、心の中で思わず苦笑した。



クリニックに着き、久々の診療業務に入った。

多少の緊張はあったが、

半年ぶりとは思えないほど、

言葉は自然に口をついて出てくる。


スタッフとも、患者とも、

コミュニケーションは良好だった。


「やっぱり先生、変わりましたよね」


若いスタッフが声をかけてくる。

その口調には、

以前にはあまり感じなかった

親しみと信頼があった。


——いや、

自分が感じ取ろうとしていなかっただけかもしれないが。


「そうかな。ちなみに、どの辺が?」


「なんというか……前より、頼もしい感じがします」


「フフッ。ありがとう。これからも頑張るよ」


「やっぱり! その感じです。

 前は『そんなことないです』って、

 否定するだけでしたもん。

 今のほうが、ずっといいです」


たしかに、いつの間にか、

謙一郎を象徴していた

いきすぎた謙遜は薄れていた。


あの広大なオーストラリアの大地に、

心の広い人々に、

少しずつ吸い取られてしまったのだろうか。


照れ笑いと苦笑いの混ざった表情で、

謙一郎はその場をあとにした。


午後の診療も、驚くほどスムーズに終わった。

少し拍子抜けするほどだった。



そして、待ちに待った日本での剣道。


——いや、

待ちに待った、というほどでもない。

ただ、自然とその時間が来た、というだけだ。


最近はシドニーでも剣道を続けていたため、

身体が動くかどうかの不安はなかった。


いつものように準備をし、道場へ向かう。

時刻は十九時を過ぎていたが、

空はまだ青みを残し、

夜とは言い切れない明るさだった。


そうか。

あれから半年。


季節も、秋から冬を越え、

春を過ぎて、夏に向かいつつある。

この半年間をゆっくり振り返りながら

道場を目指した。



道場には見慣れた顔ぶれがすでに揃い、

防具をつけ始めていた。


つい声をかけたくなる気持ちを抑え、

半年前と変わらぬ様子で道場に入り、

静かに稽古に備えた。



準備体操を終え、

竹刀を手に取った瞬間、

謙一郎はふと気づいた。


——身体が軽い。


構えも、

いつもより自然だった。

ちょうどシドニーで初めて剣道をした時のようだ。


力を入れようとしていないのに、

身体が勝手に、ちょうどいい位置に収まっている。不思議な感覚だ。


地稽古が始まる。


打とう、

勝とう、

きれいにやろう——

そうした思考が、不思議なほど浮かんでこない。


ただ、相手の動きが見える。

呼吸が分かる。

間合いが、静かに詰まっていく。


気づけば、

今まで打たれてばかりだった相手と、

互角以上の稽古をすることができていた。


稽古の終わり、

師範が何気なく謙一郎の前に立った。


じっと謙一郎を見て、

一言だけ、言う。


「うん、いいね」 


それだけだった。


だが、

それで十分だった。


謙一郎は、小さく頭を下げる。

胸の奥で、何かが静かにほどけていくのを感じながら。



帰り道、夜空を見上げると、

思っていたよりも高く、そして広かった。

見上げるほどに、胸の奥まで余白が広がっていく。


星はきらきらと瞬き、

競うことも、急ぐこともなく、

それぞれが自分の場所で光っている。


——ああ、これでいいのかもしれない。


謙一郎は、

そう思いながら、

しばらく夜空を見上げていた。

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