第7章5話 変調のあと (オーストラリア)
シドニーの冷えた五月の朝の匂い。
わずかに潮を含んだ澄んだ空気を——
味わう間もなく、
フィンは半ば強引にデイビッドの家へと連れて行かれた。
“戻った”という事実を、
静かに噛み締める時間など与えてはくれない。
隣家のドアが開いた瞬間、
焼きたてのトーストと懐かしい紅茶の香りが押し寄せる。
テーブルには、相変わらず過剰なほどの朝食。
実に懐かしい光景だった。
デイビッドは止まらない。
仕事の話、昨夜のラグビーの試合、
どうでもいい小さな出来事。
その取り止めのなさが、
なぜか心地よい。
フィンは椅子にもたれ、
ただその声を聞いていた。
自分はここにいる。
この世界に。
そして——
フィン・モーガンとして、正しく認識されている。
それだけで、胸は静かに満ちていた。
——着信音が鳴るまでは。
テーブルの端で震えるスマートフォン。
画面に表示された文字を見た瞬間、
血の気がすっと引いた。
今日が平日であることを、
彼はすっかり忘れていた。
「……まずい、仕事だ」
立ち上がる拍子に椅子が音を立てる。
デイビッドが目を丸くする。
電話の向こうから聞こえるのは、
冷静だが困惑を含んだ声。
世界は、止まってなどいない。
フィンは紅茶を一気に飲み干し、
ジャケットを掴んだ。
戻った朝は、感傷に浸る時間などくれないらしい。
ドアを開けると、五月の光が容赦なく差し込む。
スマートフォンの画面には、
いつの間にか大量のメール。
どれも部下からのものだった。
中身を見なくても分かる。
——判断を求める連絡だ。
そう決めつけながら、一つずつ開いていく。
だが意外なことに、
そうしたメールはほとんどなかった。
方針の報告が数件と、出社しないことを心配した安否確認ばかりだ。
——半年の間に、ずいぶん変わったな。
謙一郎のおかげか。
感心しながら返信を済ませ、
会社へ向かう準備を整える。
潮の匂いをかぎながら、
半年ぶりのマイカーを走らせた。
通勤路の景色も、空を横切る大きな鳥たちも、どこか懐かしい。
会社に着くと、部下たちが迎えてくれた。
半年前まで感じていた、
どこか畏怖のような距離感——
自分を恐れ、気後れするような空気は消えていた。
信頼はある。
だがそれは従属ではなく、対等に近い関係へと変わっている。
以前は、フィン一人で会社を回しているような状態だった。
だが今は違う。
一人ひとりが責任を持ち、
自立して考え、会社のために働いている。
……謙一郎め。
俺より社長業が向いてるんじゃないか?
医者なんて辞めて、こっちで働いてくれないかな。
そんなことを思ったのは、もちろん秘密である。
執務室で仕事を進めていると、内線が鳴った。
受話器を取った瞬間、なぜか嫌な予感がした。
「どうした?」
「す、すみません。またやってしまいました……」
——また?
思わず突っ込みたくなるのをこらえる。
「何があった?」
「プレゼン資料を間違えて持って行ってしまって……
すぐ正直に説明して、日を改めるか取りに戻ると提案したんですが、
『うちの会社を軽く見ているのか』って、取り合ってもらえなくて……」
「.............」
——お前はもういい、下がってろ。俺がやる。
反射的に浮かんだ昔の自分の言葉を、飲み込む。
「分かった。ミスはミスだ。そこは反省しろ。
その上で、俺も一緒に行く。もう一度正式に謝罪しよう」
「は、はい!」
部下は慌てて準備に走り出した。
その様子を、別件で来社していた
A社の社長アンソニー・ブラウンが見ていた。
「やあ、フィン。今日も忙しそうだね」
「ブラウン社長!お久しぶりです。お騒がせして申し訳ありません」
「ん? 久しぶりだったかな。まあ、それはともかく——」
ブラウンは楽しそうに目を細めた。
「君、やっぱり変わったね。もちろん良い意味でだ」
「……そうですか?」
「前は強気のワンマン社長。
最近はやけに謝罪の多い調整役。
そして今は——」
少し間を置き、笑う。
「ずいぶんバランスの取れた、いい社長に見えるよ」
「あ、ありがとうございます」
「それにしても……この半年で、まるで何度か“入れ替わった”みたいだね。ま、これからもよろしく」
意味深な言葉を残し、ブラウンは去っていった。
「……やっぱり、食えない人だな」
フィンは苦笑しながら、その後ろ姿を見送った。
先方のオフィスに着くころには、部下の顔色はまだ硬かった。
「大丈夫だ。事実をそのまま伝えればいい」
余計な慰めも、過剰な指示も出さない。
ただ一緒に行く。
ついつい、口を出しそうになるが、
ぐっとこらえた。
応接室に通されると、
社長が腕を組んで座っていた。
空気は確かに重い。
部下が深く頭を下げる。
フィンも続いて頭を下げ、一緒に謝罪した。
責任の所在だけを、簡潔に示し、
言い訳をしなかった。
しばらくの沈黙ののち、
やがて相手は息を吐いた。
「……あなたがここに来るとは思わなかった。
フィン・モーガンは謝らない男だと思っていました」
表情がわずかに緩む。
「誠意は伝わりました。資料は今日中に。次回、改めて聞きましょう」
それで終わりだった。
拍子抜けするほど、あっさりと。
確かにこれまで、
自分はほとんど謝罪などしてこなかった。
頭を下げれば、相手に、
そして部下に舐められる——
そんなふうに思い込んでいたのだ。
もし以前と同じやり方をしていたら、
きっと、こんなに早くは収まらなかっただろう。
そう思うと、
胸の奥に、わずかな苦笑が浮かんだ。
会社を出たあと、部下がようやく息をついた。
「……本当に、助かりました」
「助けたわけじゃない。次は同じミスをしないことだ」
声は、以前よりずっと穏やかだった。
空を見上げると、五月の光が高く澄んでいた。
世界は変わらず動いている。
トラブルも、判断も、責任も、特別なものではない。
——だが、向き合い方は確かに変わった。
車に戻りながら思う。
この半年が何だったのか、まだ分からない。
だが少なくとも——
あの時間は、
今ここでの選択を、少しだけ変えている。
「さて、戻るか」
日常は続く。
何事もなかったかのように。
けれど同じ日常は、もう二度と戻らない。




