第7章2話 変調の前兆 (フィン in 日本)
言葉にできない、妙な胸騒ぎを抱えたまま、
フィンの一日が始まった。
いつもの朝食。
いつもの早苗の小言。
いつもの通勤路。
いつもと変わらぬ診療。
驚くほど、何も起こらない。
結局のところ、
この胸騒ぎは、ただの気のせいなのかもしれない。
――俺の思い過ごしか……。
――それとも、また早苗に怒られる前触れだったりして。
――おれ、なんかやったか?
思い当たる節を必死に探してみるが、
特にこれといって浮かばない。
「……先に謝っとくか」
そう考えてしまうあたり、
自分でも少し可笑しかった。
日本での生活が長くなるにつれ、
フィンはすっかり
“妻の機嫌を読む男”になっていた。
かつての自分なら、
こんな発想すらしなかったはずだ。
そして不思議なことに、
家でも職場でも、
強い男を演じる必要がなくなっていた。
もし今の自分を、
オーストラリアにいる本当の(元)妻――
ジョディが見たら、
いったい何と言うだろう。
きっと、こう言うに違いない。
「……まるで、人が変わったみたいね」
実際、自分でもそう感じていた。
⸻
昼休み。
診療室の窓から差し込む光を眺めながら、
フィンはふと、
シドニーにいた頃を思い出していた。
チェンジリングが起きる前のことだ。
実際には、まだ半年しか経っていない。
それでも体感としては、
何年も前の出来事のように遠かった。
仕事に追われ、
家庭との距離を感じ、
強い男を演じることに縛られ、
自分がどこへ向かっているのかも分からなくなっていた頃。
あのとき、
ひそかに思ったことがある。
――俺の人生、このままでいいのか。
――もっと、違う人生だったら。
冗談半分で、逃げるように、
そんな願いを心のどこかで抱いていた。
そして今、皮肉なことに――
その"違う人生"を、
本当に生きるはめになっている。
最初は、順応するのに必死だった。
本当の自分を誰も覚えていないことに、
愕然としたこともある。
だが、やがて異文化体験だと割り切り、
楽しむ余裕すら生まれた。
不思議な夢を見て、
入れ替わった相手と話し、
理解できない出来事を共有し合った。
それらすべてに意味があったのかは、
今も分からない。
だが、少しだけ、分かったことがある。
それは――
人生が入れ替わっても、
自分は、自分のままだったということだ。
場所が変わっても、
名前が変わっても、
役割が変わっても、
自分という人間の中身は、
どこにも行かなかった。
ただ――
以前よりも、
ずっと自然体でいられるようになっていた。
同じ中身のはずなのに。
ひとつ、確かに変わったことがある。
それは――
人生ではなく、
自分自身との向き合い方だった。
いまの生活が楽しいのは、
人生が変わったからじゃない。
自分の考え方が、変わったからだ。
肩の力を抜き、
完璧であろうとするのをやめ、
失敗しても、笑えるようになった。
だからこそ、
いまを楽しめている。
そう気づいた瞬間、
胸の奥で、
静かに何かがほどけた。
――もし、入れ替わる前の人生でも。
――自分が、少しでも変わることができていたなら。
きっと、
あの人生だって、
もっと楽しく生きられていたはずだ。
違う人生を願ったこと自体が、
間違いだったわけじゃない。
ただ――
答えは、
人生の外にはなかった。
⸻
午後の診療も、何事もなく終わった。
いつものように剣道の稽古へ行き、
いつものように、師範に打たれた。
稽古終わり、
師範が声をかけてきた。
「守山くん。ちょっといいかね」
師範が、用もなく声をかけることはない。
これは何かある――
フィンは、わずかに身構えた。
「はい。どうしましたか?」
「ほら、そろそろあれがあるだろ。
申し込んだのかい?」
「あれ、ですか?」
あれ、と言われても正直分からない。
「なに? 分からないのかい?
今回も受けるつもりがないのか?」
「……何のことでしょうか」
師範は、少し呆れたように笑った。
「段審査だよ。七段審査。
今回は受けなさい。今の状態なら、きっと通る」
ああ、審査か。
すっかり忘れていた。
というより、
受ける気がなかったのだ。
借り物の人生だと思っていたから。
――勝手に受けたら、謙一郎は怒るだろうか。
一瞬だけ迷い、すぐに肩をすくめた。
ま、いっか。
Everything’s gonna be fine.
「分かりました。今回は受けます。
ご指導、よろしくお願いします」
「うん。よしよし。期待しているよ」
満足そうに言い残し、
師範は去っていった。
車に乗り、帰路につく。
――もしかして、
これが胸騒ぎの正体だったのか?
そう考えると、
あまりにも日常的で、拍子抜けする。
車を走らせながら、小さく息を吐く。
やはり、どこか得心がいかない。
だが、考えたって仕方がない。
そう自分に言い聞かせて、
フィンはハンドルを切った。
今夜も、
いつものように夜を迎えるだけだ。




