第7章3話 変調の前兆 (謙一郎 in オーストラリア)
謙一郎もまた、フィンと同じように、
言葉にしづらい妙な違和感を抱えていた。
だが――
やはり、何も起こらない。
朝のサーフィンは、むしろ最高だった。
波は素直で、風も穏やかだ。
身体は驚くほどよく動き、
まるで何十年も海に通ってきた
ベテランサーファーのような感覚すらあった。
「……調子、良すぎないか?」
自分でそう思うほどだったが、
だからといって不安になるほどでもない。
少なくとも、海はいつも通りで、
何かを意図している様子はなかった。
仕事に向かえば、
朝の報告でトラブルは一切なし。
それどころか、新規案件を獲得したという
なかなか景気のいい話まで飛び出した。
部下たちは仕事を任され、
それぞれがやりがいを感じている様子だ。
以前のように、
社長であるフィンの顔色を
過剰にうかがうこともない。
かといって、信頼が薄れたわけでもない。
――あまりにも、うまく回りすぎている。
そう感じなくもなかった。
本来なら、
"こういうときこそ何か起きる"
と身構えるのが謙一郎だった。
だが、オーストラリアでの生活は、
少しずつその癖は矯正されていた。
細かいことを気にしても仕方がない。
考えすぎたところで、
何かが変わるわけでもない。
そんなスタンスが、
いつのまにか身についてきていた。
そのまま午後の業務も滞りなく終わり、
いつものように外で食事をして帰るか迷った。
だが、胸の奥に残る違和感が気になり、
寄り道せず家に帰ることにした。
帰り道、信号待ちをしていると、
歩道の向こうに、
何度も見かけている
異様にでかい鳥がいた。
やけに堂々としている。
しかも――
こちらを、じっと見ているような気がする。
「……見てるよな?」
気のせいだとは思いつつ、
ふと、日本のすずめやハトを思い出した。
あの控えめなサイズ感。
あの、遠慮がちに首をかしげる感じ。
オーストラリアの動物たちは、
なにかがおかしい。
大きすぎるのだ。
動物だけじゃない。
虫ですら、容赦なくでかい。
――何度、心臓に悪い思いをしたことか。
謙一郎は小さく息を吐き、夕空を眺めた。
そのとき、
ふいに携帯が鳴った。
仕事の電話かと思い、画面を見る。
そこには、
≪妻 ジョディ≫
と表示されていた。
急に、汗が噴き出してきた。
――そういえば、
ずっと先送りにしてきた問題だ。
息子たちとの距離は
少しずつ縮まってきていたが、
元妻であるジョディとの関係は、
停滞したままだった。
出たい。
だが、あいにく運転中だ。
Bluetoothで話すこともできるが、
今の心境で運転しながら会話できるほど、
余裕はない。
ひとまず電話に出て、
運転中なので後でかけ直すと伝えた。
その後の帰り道は、
やけに心臓の音がうるさかった。
家に着くと、
まずカウチに身を沈める。
気つけのつもりで、
ワインを一杯、流し込んだ。
こんなときに酒を飲むなんて、
すっかりオーストラリア人だ。
そんな自分に苦笑しながら、
携帯の画面を見る。
あと一タップで、
ジョディに電話がかかる。
いったい何の用事だったのか。
わざわざ電話をしてくるくらいだ。
雑談ではないだろう。
悪い話か。
それとも、運よくいい話か。
不安は尽きない。
だが、かけるしかない。
覚悟を決めて、
発信ボタンを押す。
数秒もしないうちに、
ジョディが応答した。
「Hi, Finn」
どこか緊張を含んだ声だった。
「Hi. 調子はどうだい? 元気にやってる?」
まずは挨拶。
単刀直入に要件を聞きたいが、
ここは慌てない。
「ええ、元気よ。ありがとう。
あなたこそ元気? サーフィンはやってるの?」
「ああ。ほぼ毎日ね。
やっと感覚が戻ってきて、最近は楽しいよ」
「そう……よかった。
あの日のあなた、なにか変だったから」
「そうか?
まあ、とにかく元気にやってるさ」
お互いに探るような空気で、
なかなか本題に入らない。
少しの沈黙のあと、
ジョディがぽつりと切り出した。
「……最近、子どもたちと会ってるって聞いたけど」
ああ、それか。
たしかに、息子たちに直接謝罪して以来、
たまに会って雑談するようになっていた。
親子関係は、
少しずつだが修復されつつある。
男同士で通じ合うものも、確かにあった。
「謝ったんだ。
俺はダメな父親だったって」
電話越しだが、
ジョディが息を呑んだのが分かった。
よし、もうこの際だ。
ジョディにも、きちんと謝ってしまおう。
「ジョディ、君に対してもすまなかった。
俺はいつも自分のことばかりで、
君たちの話を聞かなかった。
本当に、いまさらだけど……
やっと気づけたんだ」
また、沈黙。
謙一郎が次の言葉を探していると、
ジョディが静かに口を開いた。
「……あなた、やっぱり変わったわね。
こんなふうに素直に話す人じゃなかったもの。
でも……今のあなた、悪くないわ。」
「ありがとう。
そして、もう一度言わせてくれ。
本当に、すまなかった」
ジョディが小さく息を吐くのが分かった。
「……急にそんなふうに謝られると、
どう反応していいか困るわ」
少し、笑いを含んだ声。
「困らせるつもりはなかったんだけどね」
謙一郎は、肩をすくめるように言った。
「ただ……もし、よかったらなんだけど」
一瞬、言葉を探す。
「今度、時間あるかい?
久しぶりに、一緒に海に行かないかと思ってさ」
短い沈黙。
「……サーフィン?」
ジョディが確認する。
「ああ。見てるだけでもいい。
昔みたいに、何も考えず海に行くのも悪くないだろ」
しばらくして、
ジョディがふっと笑った。
「相変わらずね。誘い方が不器用」
そして、少し間を置いて、
「……でも、いいわ。
久しぶりに波を見に行くのも悪くないかも」
胸の奥で、
張りつめていたものが静かにほどけた。
「じゃあ、決まりだな」
謙一郎はそう言って、
窓の外に広がる夕焼けの海を見た。
⸻
その夜、謙一郎はひとり考え込んでいた。
まさか自分が、
こんなにも大胆になるとは思っていなかった。
フィンの元妻との関係を修復し、
デートにまで誘う自分。
驚きと同時に、
人生が不思議と楽しく感じられていた。
チェンジリング前は、
人生そのものが重く、暗いものに思えていた。
だが今は、異国で、元は他人の人生で、
しかも先の見えない状況なのに、
"楽しい"とさえ思えている。
それは決して、
借り物の人生だからではない。
戻れる保証がどこにもないと悟った日から、
この人生も大切に生きようと決めていた。
結局は――
すべて、心の在り方次第なのだ。
剣道でも、
心の在り方は何度も教えられてきた。
昔から知っていたはずのことを、
今さらになって、
ようやく本当の意味で理解した気がした。
「……はは。ほんと、いまさらだな」
広い部屋で、
謙一郎は小さくつぶやいた。
余韻に浸りながら、
一日を終えようとした、そのとき。
それを許さないのが、オーストラリア。
隣人デイビッドのBBQ襲撃をうけ、
今日もまた大量の食事とアルコールに
呑み込まれていく謙一郎だった。
――違和感は、本人が気づかないほどわずかたが、残っていた。




