第6章4話 交わる (謙一郎 in オーストラリア) -2
車を走らせること二十分。
住んでいる場所から意外と近いところに
目的地はあった。
日本の武道場のような建物を
どこかで期待していたが、
実際にあったのは、大きな公園の一角に建つ、
西洋風の公共施設のような建物だった。
その中に、
板張りの床の空間があるらしい。
派手な看板はない。
入口の横に小さく、
“Kendo Club”
と書かれた紙が貼られているだけだった。
――ここか。
謙一郎は車を降り、
しばらく建物を見上げた。
中から、
規則正しい竹刀の乾いた音が聞こえてくる。
それに重なる、
大きな気合の声。
その音を耳にした瞬間、
胸の奥で、何かがかすかに反応した。
少し緊張しながら、ドアを開ける。
中では、十数人の剣士たちが稽古をしていた。
防具をつけているため顔は分からず、
年齢も性別も人種も、判別できない。
だが――
全員が剣道着と防具を身につけ、
日本と変わらぬ所作で竹刀を振っている。
――ちゃんと、剣道だ。
謙一郎は、思わず息を吐いた。
視線が自然と“垂れ”に向く。
漢字の名前。
カタカナの名前。
そしてローマ字表記。
日本ではまず見ない組み合わせ。
妙に新鮮で、
それでいて、なぜか嬉しかった。
「Hey!」
ふいに、横から声をかけられる。
振り向くと、
六十歳前後と思われる男性が
にこやかに立っていた。
体格は自分と同じくらい。
背筋がすっと伸び、
髪は自然なシルバー。
瞳は青い。
どうやらここの師範らしい。
「見学の方?」
「はい。メールを送った者です」
「おお、そうかそうか。よく来てくれた」
男性は笑顔のまま、
コートの方をちらりと見る。
「剣道の経験は?」
一瞬、迷う。
「……少し」
「少し?」
疑うというより、面白がるような顔だ。
「まあ、なんでもいい。とにかくたくさん見ていってくれ!
それでよかったら入会してくれな」
あえて詳しいことは聞かない。
小さいことは気にしない、オーストラリア人らしい。
「ちょうど今から休憩だから、
他のメンバーとも話してみてくれ」
そう言うと、いそいそと号令をかけにいった。
休憩に入り、全員が面を外す。
大人もいれば、
十代くらいの若い子もいる。
人種も、年齢も、体格も、ばらばら。
金髪の青年。
アジア系の女性。
浅黒い肌の中年男性。
本当にいろいろな人がいた。
そして、みんなが、日本の武道を練習している。
胸が、じんと熱くなる。
何人かが謙一郎に話しかけてきた。
剣道の奥深さや楽しさを、
生き生きと語り、入会を勧めてくる。
日本人以外から剣道に誘われる――
なんとも不思議な感覚だった。
「よし! 休憩終わり! 稽古再開!」
合図と同時に、
みんなの表情が一変する。
手拭いをつけ、
面をかぶり、
一斉に稽古モードへ。
謙一郎はコート脇のベンチに腰を下ろし、
稽古を見入った。
足運び。
間合い。
構え。
打突の機会。
細かいところまで、
無意識に目で追っている自分に気づく。
――こんなふうに人の剣道を見るの、久しぶりだな。
日本にいた頃は、
自分の欠点。
人からの評価。
そして、昇段。
そればかりで、
人の稽古を見る余裕などなかった。
その様子を見ていた師範が、声をかける。
「よかったら、道着と防具、そして竹刀を貸すけど。一緒にやってみないか?」
思わず首を横に振る。
「いえ、今日は見学だけで……」
久しぶりすぎる。
動ける気がしない。
それに、
他人の道着と防具を借りることへの、
小さな抵抗感。
「大丈夫、大丈夫」
即答。
「サイズ合うの、たぶんあるよ」
にこにこ。
「ほんとに、今日は……」
「ちょっとだけでいいからさ」
ぐいっと距離を詰められる。
――押しが強い。
そして同時に、
胸の奥が、かすかに疼く。
――ちょっとだけなら。
「……じゃあ、本当に少しだけ」
自分でも驚くほど、あっさり折れていた。
⸻
更衣室で渡された道着と防具。
サイズは、思ったより合っている。
道着を着る。
袴を履く。
垂れをつける。
胴をつける。
手拭いを巻き、面をつける。
一連の動作が、
何も考えずにできてしまう。
鏡に映る自分を見て、
謙一郎は一瞬、立ち止まった。
――ああ。これだ。
不思議と、しっくりきている。
稽古に加わると、
興味津々といった視線が集まる。
軽く礼。
一歩前へ。
身体が、勝手に構える。
大きく息を吸い、
気合を入れる。
「メン!!」
踏み込み。
竹刀が走る。
――出た。
相手は反応できず、
気持ちよく当たる。
変な力みがない。
手首が柔らかい。
「小手!!」
足が前に出る。
――出る。
むしろ――
日本にいた頃より、
いい。
――なんだ、これ。
数本打ち合い、息は上がる。
だが、
嫌な疲れじゃない。
「Awesome!」
師範が親指を立てる。
稽古が一段落し、
面を外す。
汗が、ぽたぽた落ちる。
師範が、じっと見てくる。
「……剣道は少し?」
にやり。
謙一郎は苦笑する。
「まぁ……少し、です」
胸の奥が、じんわり温かい。
「よし。入会でいいな!」
「いや、道着も防具も……」
「今度大会もあるぞ! おーい、みんな! 新メンバーだ!」
聞いちゃいない。
だが――
どこか、それを望んでいる自分もいた。
帰り際、武道具店を教えてもらい、
そのまま立ち寄り、剣道具一式を揃えた。
久々にワクワクとした感情が浮かんだ。
帰り道に見えた海は、
いつもよりも青く、
きらきらと輝いて見えた。
――ああ。
やっぱり俺、剣道が好きなんだな。
謙一郎は、
自分の心が、広く晴れ渡っているように感じた。
久しぶりに余計な考えから解放され、
ただ純粋に感動し、
"いま"を楽しめている気がした。
異国の地で、
もう一度、自分自身を見つめ直し、
忘れかけていた“好きなもの”に気づく。
そんな静かで、
確かな時間を、謙一郎は過ごしていた。




