第6章1話 交わる (フィン in 日本)
謙一郎とフィンは、
それぞれの場所でトラブルを乗り越え、
心境の変化を経て、
人として一回り成長していた。
人生も半分を過ぎたというのに。
だが――
それでも、世界は何も変わらず動き続けていた。
再び入れ替わる気配は、ない。
なんとなくの予兆も、ない。
二人が共通して何度か見たあの白い夢も、
ここ最近は、一度も現れていなかった。
謙一郎は相変わらず、
頭の片隅で"元に戻る方法"を考え続けていたが、
手がかりらしいものは、何ひとつ見つからなかった。
一方、
フィンはというと――
日本での生活を、存分にエンジョイしていた。
長野で桜の花見を楽しんだかと思えば、
沖縄で海水浴をし、
気がつけば北海道でジンギスカンを食べている。
そしてもちろん、
剣道も欠かさず続けていた。
暖かくなり、
道場の床の冷たさもやわらぎ、
身体は以前より自由に動く。
虚勢を張ることはやめ、
ただ、素直な剣道を心がける。
周囲からは、
「七段も近いですね」
そんな声が聞こえるようになっていた。
口癖の、
"Easy, easy. Everything’s gonna be fine."
も、自分を鼓舞するための言葉ではなく、
自然と口からこぼれる言葉に変わっていた。
傍から見れば、何もかもが順調で、
悩みなどないように見える日々。
――だが。
心の、もっと深い奥底には、
いつもオーストラリアがあった。
妻のジョディ。
息子たち。
隣人のデイビッド。
会社の部下たち。
彼らが元気でいることは、
謙一郎から聞いて知っている。
おまけに息子たちとは関係修復までしてきてる、なんて聞いた日にはただただ驚いた。
それでも――
彼らの世界から、
本当の"フィン・モーガン”が消えてしまっている。
その事実だけは、
どうしても受け入れきれなかった。
日本の生活に馴染めば馴染むほど、
満たされれば満たされるほど、
胸の奥に、静かな寂しさが積もっていった。
だが、この寂しさを話せる相手は、
謙一郎しかいない。
いつも隣にいる早苗には話せない。
話したところで、理解してもらえない。
そしてシドニーに行っても、
余計に寂しくなるだけだと分かっていた。
行って、何かが変わるなら、喜んで行くだろう。
だが結局、誰も本当のフィン・モーガンのことなど覚えておらず、
隣にいる謙一郎のことを、フィンと呼ぶ。
その光景を見るのも、
謙一郎の困ったような顔を見るのも、
フィンには辛かった。
同じ立場で、
同じ現実を知っているのは、謙一郎しかいない。
だが不思議なことに、
二人きりで話すと、
本来の母語しかスムーズに出てこなくなる。
フィンは英語。
謙一郎は日本語。
会話は成り立つ。
だが、深いところで噛み合わない。
それでも――
話すしかなかった。
そんなストレスを、
フィンはひっそりと抱え込んでいた。
そしてそれを誤魔化すかのように、
花見をし、
剣道をし、
旅に出て、
いろいろな体験を重ねていた。
そんなある日。
チェンジリングが起きてから、
ずっと封印していた“あるスポーツ”を、
無性にやりたくなった。
封印していたというより、
季節的にできなかっただけかもしれない。
――サーフィンだ。
オーストラリアでは、
あれほど毎日のように通っていた海。
長野には海がない。
見ることすらできなかった。
沖縄で海水浴はした。
だが、サーフボードを持つことはなかった。
それでも、
心の奥で、
小さな火が灯り始めていた。
フィンは、サーフィンに関してはプロ級の腕前だった。
だが、ここにはボードも、ウェットスーツもない。
いきなり買えば、
早苗に怪しまれる。
いや、確実に怒られる。
そこでフィンは、様々な思慮を巡らせ、
"学会"を口実に、宮崎へ行くことにした。
サーフボードはレンタル。
こっそり、波に乗る。
下調べは十分に済ませた。
身体は、覚えているはずだ。
現地に行き、波を見れば、
自然とすべて思い出す。
そう、信じていた。
宮崎へ行く数日前から、
フィンは落ち着かなかった。
何度も早苗に問い詰められたが、
実在する学会のホームページを見せることで、
なんとか切り抜けた。
実はその学会、
日本消化器外科学会だったのだが、
うまく"外科"の文字を隠して見せた。
もし本当の名称がバレたら、
相当怒られる。
それは分かっていた。
だが――
サーフィン欲のほうが、勝っていた。
後先を考える余裕など、なかった。
⸻
そして、当日。
まだ薄暗い早朝の宮崎駅に立ちながら、
フィンは胸の高鳴りを抑えきれずにいた。
まだ海までは距離があるはずなのに、
なぜか、波の匂いがする気がした。
――大丈夫だ。
身体は、覚えている。
そう自分に言い聞かせながら、
フィンは、海へ向かうバスに乗り込んだ。




