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第5章8話 変わらぬ心の行方 (謙一郎 in オーストラリア)-3

翌朝。

焼けつくような昨日の暑さとは対照的に、

その朝の空気は、穏やかで静かだった。


謙一郎は、どこかすっきりとした表情で、

いつもと変わらぬ足取りで会社へ向かった。


会議室には、張りつめた空気が漂っていた。

長い楕円形のテーブルを囲み、

取締役たちが無言のまま席に着いている。


謙一郎は、扉の前で一度だけ深く息を吸った。

昨日、自分に言い聞かせた言葉を、

もう一度、胸の奥でなぞる。


そして、静かに扉に手をかけた。


扉を開けると、

十数人の視線が一斉にこちらへ向いた。


敵意を隠そうともしない目。

戸惑いを浮かべた目。

そして――

期待と不安が入り混じった目。


謙一郎は席に着く前に立ち止まり、

その場で、軽く頭を下げた。


「本日は、お集まりいただきありがとうございます」


声は、いつもより少し低く、落ち着いていた。

社外取締役の存在を意識し、

丁寧な口調で続ける。


「本日の議題――

 つまり、私の進退についての会議に入る前に、

 少しだけ、私に時間をください」


ざわり、と空気が揺れた。


副社長のポールが、腕を組んだまま、

冷ややかな視線を向けている。


謙一郎は、その視線から目を逸らさなかった。


「私はこれまで、社長として、

 強く、正しくあろうとしてきました」


一拍、置く。


「ただ、ここ数ヶ月、

 心境に変化があり、

 自分の立ち振る舞いを見直していました。

 以前のような強硬な姿勢では、

 うまくいかないのではないかと」


「もちろん、

 常に最善の判断をしてきたつもりでした」


静かに、言葉を重ねる。


「ですが今思えば、

 それは独りよがりな考えだったのかもしれません」


会議室が、しんと静まり返る。


「年齢を重ね、会社が大きくなるにつれ、

 私は慎重になりすぎていました。

 取引先との摩擦を恐れ、

 波風を立てないことを優先し、

 判断を先送りし、

 必要以上に頭を下げてきた」


誰かが、わずかに身じろぎをした。


「それは誠実さのつもりでした。

 責任感のつもりでもありました」


そこで、謙一郎ははっきりと言い切る。


「ですが――

 今なら分かります。

 それは、覚悟を見せない姿でした」


ポールの眉が、わずかに動く。


「私は、

 “間違えない社長”であろうとしていました。

 しかし――

 それは、“信頼できる強い社長”ではなかった」


空気が、少しずつ変わり始めているのを感じる。


「皆さんの不安は、もっともです。

 自信がなさそうなトップに、

 人生を預けたいとは思えないでしょう」


謙一郎は、一度だけ深く息を吐いた。


「ですが――

 私は、逃げません」


声に、わずかな力が宿る。


「この会社の未来について、

 私は考え抜いてきました。

 判断を避けていたわけではない。

 ただ――

 語る勇気が、足りなかったのです」


取締役員たちが、

静かに顔を上げた。


「私は、完璧な社長ではありません。

 本当は自信満々でもない。

 迷うことも、不安になることもある」


そこで、かすかに笑う。


「ですが――

 決めます。

 決断します。

 そして、責任は、私が取る」


その言葉は、

誰かを打ち負かすためではなく、

差し出すように、静かに放たれた。


「それでも、

 私を社長として認められないという判断が下るなら、

 私は、それを受け入れます」


一瞬、

会議室に完全な沈黙が落ちる。


「ですが――」


最後に、はっきりと告げた。


「この会社を、この仲間たちを、

 中途半端な覚悟で率いたことは、

 一度もありません」


謙一郎の言葉が、

会議室の空気に、深く残った。



議論は、思いのほか短かった。


数名の役員が、

「信頼を失ったのは事実だ」

「今さら言葉だけでは遅い」

と口にしたが、


発起人であるはずの副社長ポールは、

最後まで発言せず、

眉間に深いしわを刻んだまま、考え込んでいた。


張りつめた空気のまま、

時間が過ぎていく。


そして――

採決が行われた。


その結果、

社長退任反対派が過半数を占めていた。


議長が、静かに告げる。


「よって――

 フィン・モーガン氏の社長続投を認めます」


謙一郎は静かにその言葉を聞いていた。


信頼が完全に戻ったわけでもない。

だが――

道は、断たれなかった。



会議が終わり、

人々が席を立つ。


副社長のポールが近づいてきた。


「……あなたの考えは分かった。

 すまなかった。俺は前のボスが好きだったけど、今のあなたもこの会社に必要だ」


謙一郎は、ほんの少しだけ笑った。


まだ、道の途中だ。

だが――

確かに、一歩は踏み出した。


窓の外を見ると、

シドニーの空は、

昨日よりも少しだけ高く見えた。


謙一郎は、静かに息を吸う。


これは、終わりではない。


ようやく――

始まりなのだ。


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