第5章7話 変わらぬ心の行方 (謙一郎 in オーストラリア) -2
夏の気配をまだ手放さないシドニーの街で、
謙一郎はひとり、冷や汗に身をすくめていた。
明日に向けて、何かをしなければならない。
だが、何をすべきかが分からない。
それでも今日という日は、
容赦なく前へ進んでいく。
やらねばならない仕事は、
今日も当然のように山積みだった。
こんな時くらい、
すべてを投げ出して明日に備えるべきなのに。
それができないのが、
謙一郎という人間だった。
「……とにかく、今日の仕事に取り掛かろう」
独り言が、広い社長室に虚しく響いた。
たしか今日は、A社の社長との面談が入っていたはずだ。
⸻
A社の社長――アンソニー・ブラウン。
業界内で異様なほど顔が広く、
この男に嫌われたら、この業界では生きていけない。
そんな噂が、まことしやかに囁かれる人物だった。
かつて部下のウィリアムが一度、
彼を怒らせかけたことがある。
それ以来、この取引だけは、
謙一郎自身が前に出るようにしていた。
「やぁ、フィン。噂は聞いているよ」
やはり、耳が早い。
社内にスパイがいるのではないかと、
疑いたくなるほどだった。
「お騒がせして申し訳ありません。
御社にご迷惑が及ばぬよう、最善を尽くします」
頭を下げると、
ブラウンは面白そうに目を細めた。
「殊勝だな。
私は、今の君のそういうところも嫌いじゃない。
ところで……理由は分かっているのか?」
胸の奥が、ひくりと動いた。
「正直に申し上げて……
まだ、はっきりとは」
「そうか。なら、私の見立てを言おう」
ブラウンは、わずかに間を置いて続けた。
「君は最近、よく頭を下げる。
そして、判断に迷い、言葉を選びすぎる。
私から見れば、それは誠実さだ。だが――」
視線が、鋭くなる。
「部下から見れば、違う。
自信がない社長に見えたんじゃないか?」
頭を、鈍器で殴られたような衝撃だった。
いや、鈍器ではない。
竹刀か、あるいは木刀か。
確かにこの数ヶ月、
取引先との摩擦を避けるあまり、
必要以上に低姿勢になっていた。
それは、本来の自分の気質でもある。
謙虚で、慎重で、安全を優先する。
間違いを犯さないための、生き方だ。
だが――
それが前面に出すぎたとき、
部下の目には、
迷いとして映っていたのかもしれない。
そして、その迷いこそが、
少しずつ信頼を削っていった原因だったのだろう。
「……ありがとうございます。
ようやく、理由が見えた気がします」
「なら結構。
明日は、社長らしく振る舞いなさい」
そう言って、立ち上がりかける。
「あ、ブラウン社長。本題の打ち合わせが……」
「ああ、危ない。
いいことを言った気分で帰るところだった」
そこからは、
予定通りの打ち合わせが行われた。
謙一郎はいつも通り丁寧に、誠実に話を進めた。
たとえ明日、社長を降ろされるとしても。
⸻
帰り道。
フィン自慢のスポーツカーを走らせながら、
謙一郎はここ数ヶ月を振り返っていた。
――判断を誤れば、大損失となる。
――波風は立てない方がいい。
その思いが先に立ち、
取引先に対して、少しでも不満がみえると、
“I’m sorry” というのが癖となっていた。
会議の席で、
強気な相手に一歩引くたび、
背後の部下たちの空気が、
わずかに重くなるのを感じてはいた。
――またか。
そんな、言葉にならない落胆。
当時は、気づいていなかった。
いや、気づかないふりをしていた。
社内の会議でも同じだった。
「もう一度考え直そう」
「もう少し検討しよう」
「何かあったら困るから」
謙一郎にとっては、
すべて責任感から出た言葉だった。
だが、部下たちには――
頼りなさに映っていたのだろう。
謙一郎は、机に手をつき、深く息を吐いた。
――フィンなら、どうしただろう。
彼は、常に堂々としていた。
部下たちに、疑う余地すら与えなかった。
ワンマンすぎるところはあったが、
信頼は、確かに集まっていた。
"俺が決めた。責任は俺が取る"
その一言が、
どれほど周囲を支えていたか。
今になって、痛いほど分かる。
⸻
謙一郎はパソコンを立ち上げ、
明日の原稿の準備に取りかかった。
取締役会の冒頭で、いつも簡単な挨拶をする。
今回も、それは変わらないらしい。
文書ファイルを開き、最初の一文を書く。
――
"自信がない社長を、誰が信じる?"
胸が、ちくりと痛んだ。
自分は、誠実であろうとした。
だが、覚悟を見せていなかった。
謝ることで、
慎重に振る舞うことで、
責任を取った気になっていただけだった。
「……俺は、相変わらず
自分を信じていなかったんだな」
明日、取締役会がある。
だが、やるべきことは決まった。
完璧でなくていい。
自信満々である必要もない。
だが――
覚悟だけは、見せる。
まだ陽は高い。
今日の時間は、まだ、ある。
謙一郎は、静かに立ち上がった。
これは、会社を守るための戦いであり、
同時に――
自分自身の殻を破るきっかけとなる
一日になるかもしれない。
そう、確信し始めていた。




