第5章5話 変わらぬ心の行方 (フィン in 日本) -3
長野は春を迎えたとはいえ夜になると、
冷たさと暗さが心の隙間にまで忍び込んでくる。
悪い知らせを受けたあとも診療は続いた。
だがフィンの頭の中は、霧がかかったように重かった。
どうすればよかったのか。
その問いは、あの場面ひとつに向けられたものではない。
たった一度の出来事ではあったが、
それはフィンにとって、人生そのものを問い直すきっかけになっていた。
――このままでいいのだろうか。
その日の夜、
フィンは防具袋を車に積み、道場へ向かった。
迷った末の選択だった。
疲れている。
頭も、心も重い。
だが、身体を動かさずにはいられなかった。
できれば、心にかかったもやを、
少しでも振り払いたかった。
道場の引き戸を開けると、
木の床に染みついた汗と、乾いた空気の匂いが鼻をついた。
「こんばんは」
声を出すと、思ったよりも低く、かすれていた。
稽古は淡々と進んだ。
素振り、切り返し、基本打ち、そして稽古。
身体はすでに慣れており、自然と動いている。
だが、心はどこか上の空だった。
一太刀ごとに、昨日のやりとりが頭をよぎる。
切り捨てた言葉。
伏せられた視線。
自分が優先させた判断。
そして、その結果。
振り払おうとしても、振り払えない。
自分が稽古に集中できていないことは、
はっきり分かっていた。
稽古が終わり、師範に挨拶をしに行くと、
静かな声で呼び止められた。
自分より十歳以上年上で、身体も小柄なその師範には、これまで一度も打ち込めたことがない。
特に今日は、いつも以上に打ちのめされていた。
「今日は少し雑念が多すぎたね。隙だらけだったよ。
最近は堂々として迫力も出てきたから、七段も近いかなと思っていたんだが……」
「すみません。
ちょっと仕事で色々あって、疲れていて」
「そうか。まぁ、大変だよな」
師範は一度うなずき、続けた。
「ひとつ気になっていたんだが、最近はあまり助言を聞かなくなっているよね。
前は、しつこいくらい聞きに来ていたのに。
今はこちらが言っても、あまり耳に入っていない。
そういうのは、分かるものだ」
言葉を返せなかった。
師範の言う通りだった。
もともと、誰かの助言を好んで受け入れる性格ではない。
自分は自分のやり方で強くなる。
サーフィンも、会社の経営も、そうしてきた。
だがあの出来事が、ふと脳裏をよぎる。
――それが、よくなかったのかもしれない。
そんな思いが、わずかに芽生えていた。
さらに、シドニーでの自分の姿が重なる。
人は周りにいた。
だが、どこかいつも孤独だった。
誰も助けてくれない。
そう思っていた。
だが、本当は、自分が誰も近づけていなかったのかもしれない。
「最近の君は、猛々しい剣風になってきていた。前は自信のなさが剣に出ていたから、それ自体は悪くないと思っていた。
だが、よく見ると違う。
それは自信じゃない。虚勢だ」
師範は、穏やかな口調で、はっきりと言った。
「いいかい。
自信があることと、虚勢を張ることは、まったく違う」
その言葉が、胸の奥に、まっすぐ落ちてきた。
「強く見せようとすると、剣は硬くなる。
硬すぎる剣は、いずれ折れてしまう」
少し間を置いて、師範は続けた。
「素直に自分を受け入れなさい。
迷う自分も、不安な自分も、弱い自分も――
すべて、君だよ」
そして、照れくさそうに笑った。
「……なんてね。ちょっと偉そうだったかな。
まぁ、頑張んなさい」
肩をぽんと叩き、師範はその場を離れていった。
フィンは、息を止めていたことに気づき、ゆっくりと吐いた。
――ああ。
胸の奥で、何かが音を立てて外れる。
強くあろうとするあまり、自分を押し殺していた。
それは守るための鎧のつもりだった。
だが実際には、自分を閉じ込める檻だったのかもしれない。
「……ありがとうございます」
それだけ言うのが、精一杯だった。
道場を出ると、
夜風が火照った身体を冷やした。
空が、いつもより高く感じられた。
⸻
翌日。
フィンは診療開始前に、スタッフ全員を集めた。
突然のことで、皆、戸惑った表情を浮かべている。
フィンは一度、深く息を吸った。
「……一昨日の件だが」
視線が一斉に集まる。
そう言われただけで、皆、何のことか察しているようだった。
「あの判断は、俺のミスだった。すまない」
はっきりと、そう言った。
一瞬、空気が張りつめる。
「君たちの声を、ちゃんと聞かなかった」
若いスタッフが驚いたように目を見開いた。
「これからも、どんな小さな違和感でも、遠慮なく言ってほしい」
言葉を選びながら続ける。
「俺は、すべてを一人で判断できるほど、完璧じゃない」
少しだけ、苦笑した。
「だから――
一緒に考えてくれ」
少しの間、沈黙が流れた。
その空気を破ったのは、
早苗の、いつもの明るい声だった。
「なぁに言ってるのよ。
ちょっと前までは、いつも私たちに聞いてたじゃない。
最近はなんだか自信がついたみたいで、それはそれで頼もしかったけど」
職員たちも、同意するように小さくうなずき、
若いスタッフがあとに続く。
「……そうですね。
今まではむしろ、自信がなさすぎるくらいでしたし。一昨日はちょっと驚きましたけど、
私も、これからは引き下がらないようにします!」
その言葉に、場の空気が一気に和らいだ。
フィンは、胸の奥に、
じんわりと温かいものが広がるのを感じた。
完璧でなくていい。
強く見せなくていい。
そう思えたのは、
久しぶりだった。
⸻
帰り道。
フィンは歩きながら、ふと空を見上げた。
すぐに何かが変わるわけではない。
問題が消えるわけでもない。
だが――
自分の中で、何かが、確かに動き始めている。
「Everything’s gonna be fine」
今度は、空虚な言葉ではなかった。
自分に言い聞かせるためでもない。
変わろうとする、
静かな決意として、
自然に口をついた言葉だった。
フィンは、前を向いて歩き出した。
まだ、道の途中ではあるが。




