第5章3話 変わらぬ心の行方 (フィン in 日本)
日本での生活も、
気がつけば、四ヶ月を過ぎようとしていた。
フィンは、純和風な暮らしにも、仕事にも、
すっかり慣れてきていた。
早苗との日々のやりとり。
一日、一週間のリズム。
仕事の流れ。
最初の頃にあった新鮮さと戸惑いは薄れ、
代わりに、
自信と、わずかな慢心が芽生え始めていた。
そして、
その奥に潜む焦りと不安。
――もう、元に戻れないかもしれない。
その思いは、
フィンの中で、
静かに、しかし確実に形を持ち始めていた。
そうなると、
抑えていたものが少しずつ顔を出す。
剛腕で、豪胆なワンマン社長。
“強い男”という仮面。
それは、
本来のフィン・モーガンが
長い時間をかけて身につけてきたものだった。
その仮面が、
再び、静かに戻ってきていた。
⸻
ある日の午後。
外来は、珍しく混み合っていた。
予約は詰まり、
新患が続き、
待合には人が溢れている。
スタッフの足取りも、
自然と早くなる。
そんな中、
一人の患者が診察室を出た直後、
若いスタッフが声をかけてきた。
「先生……少し、よろしいですか」
カルテを手に、
どこか言いにくそうな表情をしている。
「さっきの患者さんなんですが……」
なかなか本題に入らないその間に、
わずかな苛立ちがフィンの胸に芽生えた。
「どうした?」
「患者さんの様子が……
いつもと、少し違う気がして……」
その言葉を遮るように、
別のスタッフが、
次の患者のファイルを置いていく。
待ち時間は、すでに長い。
これ以上、
流れを止めるわけにはいかなかった。
フィンはカルテに目を落とし、
検査値とバイタルを、
もう一度確認する。
――やはり、問題はない。
「検査値も、データも正常だ」
そう言って、顔を上げた。
「はい……ですが」
スタッフは、引き下がらなかった。
「顔色も、
受け答えも、
どこか普段と違うような気がして……」
その言葉に、
フィンはこれ以上付き合っていられなかった。
――忙しい日に限って、
こういう曖昧な話を。
本来の謙一郎であれば、
ここで足を止めていただろう。
スタッフの言葉に耳を傾け、
念のために、
もう一度診察室へ呼び戻していたはずだ。
だが、
フィンは違った。
「俺が大丈夫だと言ってる」
思った以上に、
強い声が出た。
悩んでいる暇はない。
異常は見当たらない。
忙しい診療を回すには、
即決即断が必要だ。
ビジネスも同じだ。
曖昧な感覚に、
時間を割いてはいられない。
フィンの言葉に、
スタッフは一瞬、言葉を失った。
「数値に異常はない。
そのまま帰していい」
「……でも、先生」
「帰していい。大丈夫だ」
語気は、
自然と強まっていた。
スタッフは視線を伏せ、
小さく頭を下げて、
診察室を後にした。
フィンは、
次の患者を呼び入れる。
だが――
胸の奥に、
わずかなざわめきが残った。
自分は、
何を優先したのか。
効率か。
流れか。
それとも――
自分の判断を疑われたくない、
という意地か。
いや、これでいい。
トップが部下の意見に振り回されて
判断を迷わせるようでは、
現場に不安を与える。
即断即決の強いトップでいること。
それが、
これまでも、これからも、
求められてきた役割なのだ。
そう自分に言い聞かせながら、
フィンは診療を続けた。
⸻
その日は、
特に問題も起きず、
予定通りに終わった。
だが夜になっても、
あの言葉が、
頭から離れなかった。
「様子が、
いつもと違う気がして」
その“気がして”を、
切り捨てたのは、
自分だった。
本当に、
それでよかったのか。
問いは、
遅れてやってくる。
判断に迷わなくなった代わりに、
自分は、
何か大切なものを
置き去りにしていないか。
布団の中で、
フィンは暗い天井を見上げた。
剛腕であること。
豪胆であること。
決断を独り占めすること。
それらは、
確かに強さだった。
だが同時に、
危うい部分でもあったのかもしれない。
「…… everything’s gonna be fine.」
誰に聞かせるでもなく、
どこか頼りなげに、そう呟く。
答えはまだ出ない。
ただ、
胸の奥で、
不吉な予感だけが、
静かに、確実に膨らみ始めていた。




