第5章2話 変わらぬ心 (謙一郎 in オーストラリア)
夏の気配を引きずったまま、
シドニーは初秋の穏やかさに包まれていた。
長野が春を迎える準備をしている一方で、
この街では、季節がゆっくりと秋の支度を始めている。
だが、
謙一郎の胸の内は、
その陽気とは裏腹に、穏やかさを失っていた。
フィンに会えた。
自分と入れ替わった人物に、
ついに直接会うことができた。
それは、確かに大きな一歩だった。
だが――
何も変わらなかった。
世界は、
何事もなかったかのように動き続けている。
その事実が、
ひどく残酷に思えた。
フィンに励まされ、
一時は気持ちも持ち直した。
"Everything’s gonna be fine."
その言葉に、
わずかな希望を預けもした。
だが、
変化の兆しが何もないまま、
気がつけば暦は三月に入っていた。
日が進むにつれ、
焦燥と、
言いようのない不安だけが募っていく。
仕事へ向かう足取りは、
以前よりも、さらに重くなっていた。
これまでは、
借り物の人生であり、
いずれ元に戻れるはずだと、
どこかで高を括っていた。
だからこそ、
大企業の社長らしく、
虚勢を張り、
堂々とした立ち振る舞いもできていた。
だが、
もし――
もう元に戻れないとしたら。
この先もずっと、
"フィン・モーガン"として、
この会社を率いていかなければならないとしたら。
そう考えた瞬間、
胸の奥に、
とてつもない重圧がのしかかってきた。
ここには、
自分ひとりの人生だけではない。
何百人という社員の生活があり、
その先にある家族の人生までもが、
自分の判断ひとつに懸かっている。
そして――
家族のことも、だ。
わずかな前進はあった。
だが、まだ不完全で、
歪なままの家族関係が、
そこに残されている。
そんな当たり前の事実に、
謙一郎は、今さらながら気づかされていた。
本来なら、
"フィン・モーガン"という男は、
もっと自信に満ちていていいはずだった。
行動力もある。
人前で話す度胸もある。
強さを前面に出して、
周囲を引っ張っていく力も、
彼には、もともと備わっている。
だが――
謙一郎の心は、
何かにつけて立ち止まってしまう。
この判断は正しいのか。
誰かに迷惑をかけていないか。
本当は、
別の選択肢があったのではないか。
考え始めると、
きりがなかった。
日本で生きていた頃、
胸の奥に張りついていた感覚が、
ゆっくりと、しかし確実に戻ってきている。
自信のなさ。
行き過ぎた心配。
理由の分からない不安。
それらは、
環境が変われば消えるものではなかった。
ただ、
ほんのわずか、忘れていただけなのだ。
むしろ、
別の人生を生きたからこそ、
その輪郭は、
以前よりもはっきりと、
彼の前に現れていた。
「……大丈夫だろうか」
誰に聞かせるでもなく、
謙一郎は、小さく呟いた。
答えは返ってこない。
代わりに、
胸の奥で、
小さなざわめきが、
静かに広がっていった。
それは、恐れであり、
同時に――
もう一度、自分の人生と向き合うための、
合図のようにも思えた。




