第5章1話 変わらぬ心 (フィン in 日本)
白く冷えた長野の空気に、
ほんのわずかに春の匂いが混じりはじめていた。
二人が直接会ったあの日から、
すでに二ヶ月が経過していた。
フィンは朝の冷え込みの中で深く息を吸った。
肺に入ってくる空気は、まだ冬の名残を帯びている。
だが、その奥にはかすかな柔らかさも感じられた。
暦は三月。
季節は、確かに初春へと向かっている。
――それでも。
あれから、何ひとつ変化は起きていなかった。
朝、目を覚ますと隣に早苗がいること。
いつの間にか当たり前になった日本の食事。
決まった時間、決まった道を行く通勤路。
近所の人々と交わす、短い挨拶。
名前を呼ばれることにも、
もういちいち戸惑わなくなっていた。
――守山謙一郎。
その名で呼ばれるたび、
胸の奥で小さな違和感が鳴る。
だが、その音も、
日を追うごとに静まっていく。
それが、
少し怖かった。
元に戻る方法は、いまだに見つかっていない。
一度は試しに、フィン自身がシドニーへ向かった。
だが結果は、
謙一郎のときと、まったく同じだった。
何も起きなかった。
誰一人として、
フィンを"フィン・モーガン"だと認識しなかった。
これまでは、
日本での生活の新鮮さに救われ、
このままでいいのかもしれない、
とさえ思う瞬間があった。
だが、
自分がいたはずの場所、
本来なら戻れるはずの世界に立ってみると、
そこには、自分の居場所はなかった。
誰にも気づかれない。
誰にも呼ばれない。
まるで、
自分の人生そのものが、
否定されたような気がした。
さすがのフィンの心にも、
それは重くのしかかった。
口では、
"大丈夫だ" "きっとなんとかなる"と
謙一郎を慰め、励ましていたが、
本当は――
自分だって、
泣き言のひとつくらい、
吐き出したかった。
だがフィンは、
自分が思っている以上に、
"強い男"を演じることに慣れてしまっていた。
日本での生活で、
わずかばかり忘れていた仮面がまた戻ってくるのを感じた。
会社でも、家庭でも。
困っている顔を見せない。
弱音を吐かない。
判断を迷わせない。
そうしていれば、
周囲は安心する。
頼ってくる。
そして、期待する。
それが"フィン・モーガン"という人間なのだと、
いつの間にか、
自分自身に刷り込んでいた。
だが――
その役割を果たすたびに、
胸の奥で何かが、
少しずつ、確実に削れていく。
音もなく、
気づかれないまま。




