15話 決意
彼の身体を支えようと腕を伸ばす。
けれど、指先に伝わった生温かな感触に、がたがたと震えることしか出来ない。
「……嫌」
喉の奥から、掠れた声が漏れる。
「嫌……嫌ぁぁぁぁぁッ!」
私は彼の身体を抱きしめたまま、悲鳴を上げた。
「はは、そんな顔しないで……」
「無理に決まっているでしょう!」
「これくらい……問題ない……。大した傷じゃない」
「お願い、もう喋らないで……」
そう言いながらも、カミルは苦笑した。
服の袖には血が滲んでいる。幸い深い傷ではないようだが、それでも痛々しい。その姿を見つめていると、胸の奥が強く軋んだ。
――問題ないはずがない!
私を守ろうとして、怪我をしたのだ。自分の大切な人が傷付いた。その事実に、冷たい怒りが込み上げてくる。
「わ、私は悪くない……悪くないのよ……」
掠れた声が聞こえた。視線を向けると、クラリッサがその場に崩れ落ちていた。
自分が何をしてしまったのか、ようやく理解したのだろう。
顔色は紙のように白く、肩は小刻みに震えている。先ほどまでの狂気じみた興奮は跡形もなく消え失せ、虚ろな瞳だけが宙を彷徨っていた。
「違う……違うのよ……」
震える唇から同じ言葉が何度も零れる。まるで自分自身に言い聞かせるように。
「エリザベート! あんたが……、悪いのよ!」
突然、クラリッサは弾かれたよう顔を上げた。先ほどまでの怯えた様子が嘘のように、大声で叫び始める。
「あんたは醜い肥った悪役令嬢がお似合いだったのに! 痩せたからって調子に乗って! 私だって、私だって……」
ようやく、私のことを認めてくれたと思っていた。
以前と変わらず、そんなふうに私を見下していたなんて……。
「クラリッサ……」
私は彼女の名を呟いた。
大切な人を傷つけられた怒りはあったし、刃を向けられた恐怖も消えていない。今だって指先は冷たく、身体の震えは止まらない。
それでも――。目の前にいる彼女は、かつて私が知っていたクラリッサとはあまりにも違っていて。流行のやせ薬を飲み始める前の彼女は多少ふっくらとしていたけれど、健康そのものだった。
それがどうだろう。
頬は痛々しいほどこけ、肌は血の気を失って青白い。瞳からは生気が抜け落ち、艶やかだった髪もところどころ薄くなっている。
まるで数年どころか、十年以上もの歳月を一気に重ねてしまったかのようだった。
その姿は痛々しくて、見ているだけで胸が苦しくなった。
彼女は私に刃を向け、カミルを傷つけた。もちろん許されることではない。
その事実は変わらないけれど、だからといって目の前の彼女を見て溜飲が下がるわけでもなかった。
むしろ苦しかった。
怒りの矛先を向けるべき相手が、すでに十分すぎるほど壊れてしまっているように見えたからだ。
私は唇を噛み締める。込み上げる怒りと、どうしようもないやるせなさが胸の中で絡み合う。
「……ッ」
この怒りをどこへ向ければいいのだろう――。
クラリッサに?
それとも――彼女をここまで追い詰め、狂わせた痩せ薬にか。
地面に崩れ落ちたアンネを見つめながら、私は拳を強く握り締めた。胸の奥で燃え続ける怒りは、もはや彼女一人に向けられたものではなくなっていた。
やがて憲兵と街医者が駆けつけた。
クラリッサは憲兵に連行され、カミルは街医者による手当を受け、そのまま屋敷へ戻ることになった。
***
翌日。安静のため寝台に横たわるカミルに、私は付き添っていた。
クラリッサがカミルを刺したのは、果物ナイフだった。幸い刃渡りも短く、傷は深くなかったものの、それでも刃物で刺されたことに変わりはない。しばらくは無理をせず、安静にしているよう医師から言われている。
私は寝台の傍らに腰を下ろし、白いシーツに横たわるカミルをじっと見つめた。
「……許せないわ」
ぽつりと呟いた声に、カミルが顔を上げる。
「エリザベート?」
「クラリッサは悪くない、なんて言うつもりはないの」
私は膝の上で拳を握り締めた。
「正直に言って、怒っているわ。大切なカミルを傷つけたんですもの。……でも、あの子は被害者でもあるのだと思うの」
ダイエットとは本来、自分を大切にするためのものだ。健康になるために、もっと自分を好きになるために。
決して身体を壊すためではない。ましてや、心まで壊してしまうためのものではない。
それなのに、クラリッサは全てを失いかけている。健康も、自信も。そして、これから先の人生さえも。
今回の事件を起こした以上、きっと夫から離婚を言い渡されるだろう。伯爵夫人の立場を追われることになるかもしれない。
そして何より――、お腹を痛めて産んだ我が子とも、二度と会えなくなるかもしれない。
私は彼女のことを許せないし、自分がしたことの責任は背負うべきだと思う。それでも……可哀そうだと思ってしまう自分が、嫌になってしまった。自業自得だと、そう切り捨ててしまえばどれだけ良かったのに。
「私が目指していた美容は、こんなものじゃない……。女性を苦しめるためのものじゃないのよ……」
カミルはしばらく黙っていた。やがて小さく息を吐く。
「エリザベート……。気持ちはわかるけど、無理はしないでくれ」
カミルは少し考えるように視線を伏せた。
「確かに、僕も気になるところはある。クラリッサは、明らかに普通の精神状況ではなかった。あの痩せ薬には精神に異常をきたすような成分も含まれているのかもしれない。だけど……」
彼は私をまっすぐ見つめた。
「時間はかかるけど、痩せ薬の危険性を確実に明かせれば、あのサロンは閉店に追い込むことが出来る。そうなれば、新たな犠牲者は出なくなる。それまでの辛抱だよ」
諭すような声音だった。
「くれぐれも、あのサロンに乗り込もうなんて考えちゃいけない。痩せ薬を作ったのが、どんな人物なのかも分かっていないんだから」
「カミル……」
分かっている。彼の言っていることは正しいことくらい。
それでも――、私はもう決めていた。
仮面舞踏会で出会った、男装の麗人。
ライバルサロンの経営者。
クラリッサ・ローゼンベルク。
たとえ危険に身を晒すことがあっても、彼女と話さなければならない。それに確認しなければいけないこともあった。
どういうつもりで、あの危険な痩せ薬を人々に勧めているのか。
一体、彼女は何者なのか。
これ以上、好き勝手にはさせないわ。
クラリッサだけではない。今もこの時だって、同じような被害者が増えているかもしれない。
誰かが止めなければならない。ならば、自分しかいないと思った。
お待たせしました!本日より連載を再開します!今後は、2~3日に1回ほどのペースで更新する予定です。すでに第3章の最後まで執筆済みなので、これからは安定して更新していけると思います。どうぞ最後までお楽しみいただけたら嬉しいです!
また、これまでのお話も一部加筆・修正しています。お時間のある方は、ぜひこの機会に最初から読み直してみてください。





