SIDE アンネⅣ
手の中の手紙を、もう何度読み返しただろう。
『それでは――翌週のはじめに、お会いしませんか。』
その一文を書くだけで、どれほど勇気が必要だったことか。
便箋を前に何度もペンを止め、書いては消し、書いては丸めて捨てた。
それでも、エリザベート様の言葉が背中を押してくれた。
「待っているだけでは、何も始まらないわよ」
その通りだと思ったから。私は勇気を出して、手紙を出した。
そして返ってきた返事には、短くこう書かれていた。
『喜んで。お会いできる日を楽しみにしております』
その一文だけで胸がいっぱいになった。
そして今、私は約束の喫茶店の前で、大きく深呼吸をしていた。
「大丈夫……」
大丈夫、大丈夫よ。
あの人は、他の人たちとは違う。肌が治っていないからといって、私を軽蔑したりはしない。
自分にそう言い聞かせ、私はそっと扉を押した。
店内は昼下がりの柔らかな陽射しに包まれ、静かな時間が流れていた。視線を巡らせると、店の奥――人目につきにくい壁際の席に、一人の男性が座っている。
私はその席へ歩み寄り、足を止めた。
「……え?」
黒い礼服。
背筋を真っ直ぐに伸ばした美しい姿勢。
そして――
「あの仮面……」
仮面舞踏会の夜、彼が身に着けていた白い仮面。あの日と寸分違わぬものが、その顔を覆っていた。
ここは舞踏会ではない。店内を見渡しても、仮面を着けている人など一人もいなかった。なのに彼だけが、あの夜と同じように素顔を隠している。その姿はあまりにも場違いで、戸惑ってしまう。
私の気配に気付いたのだろう。
彼はゆっくりと立ち上がる。
「……アンネ様、ですね」
聞き慣れた声だった。
手紙を読み返すたびに思い浮かべてきた、あの優しい声。
胸の奥が、そっと熱を帯びる。
「はい……」
私は席へ向かう。胸が高鳴る。やっと会えて嬉しい。でも同時に、不思議だった。
どうして仮面を……?
そんな私の視線に気付いたのか、彼は少しだけ困ったように笑った。
「驚かせてしまいましたね」
「い、いえ……」
「本当は、外した方がいいのでしょう」
彼は仮面へそっと触れる。
その指先は少し震えていた。
「ですが……まだ勇気が出ませんでした」
どこか自分を責めるような、寂しげな声だった。
「勇気……?」
「ええ」
彼は視線を落とし、ゆっくりと話し始めた。
「私は昔、事故に遭いまして。……その時、顔に大きな傷を負いました」
私は息を呑んだ。
「命は助かりましたが、それ以来、人前で素顔を見せるのが怖くなってしまったのです」
仮面越しでも分かるほど、その表情は自嘲に満ちていた。
「皆さんは『気にするほどではない』と言ってくれます。でも、自分ではそう思えない……」
その言葉を聞いた瞬間、胸が締め付けられた。
その気持ちは、痛いほど分かる。私もずっとそうだったから。
肌荒れに苦しみ、人の視線を恐れ、鏡を見るたびに自分を嫌いになっていた。
彼は続ける。
「ですから……あなたから会いたいと言っていただけた時、とても嬉しかったと同時に……」
少しだけ間を置き、小さく笑う。
「それと同じくらい、怖くもありました。もし、この素顔を失望されたら。そう思うと……結局、今日も外せませんでした」
その姿は、まるで私自身を見ているようだった。
私はゆっくりと微笑む。
「ダミヤン様」
彼が顔を上げる。
「私達、同じなんですね」
「え……?」
「私もずっと、人前に出るのが怖かったんです」
あの頃の自分を思い返す。
人の視線が怖くて、鏡を見るたびにため息をつき、自分を嫌いになっていた日々。
「だから、その気持ちは分かります。仮面を外すのは……怖いですよね」
彼は小さく頷いた。その仕草だけで十分だった。
きっとこの人も、誰にも言えない苦しみを抱えながら、今日まで生きてきたのだ。
私たちは同じだった。だからこそ、私は思う。
私が惹かれたのは、この人の誠実さだった。
手紙に綴られた優しい言葉、相手を思いやる温かな心。その一つひとつに触れるたび、私はもっと彼を知りたい、会いたいと思うようになった。
仮面の下にどんな傷があったとしても、その気持ちは少しも変わらない。
むしろ――。
こんなにも自分と似た痛みを抱え、それでも誰かを思いやれる人だから。私は、この人に惹かれたのかもしれない。
「実は今日も、ここへ来る前に何度も帰ろうと思いました」
少し恥ずかしくなって、小さく笑う。
「でも、あなたに会いたかったから……頑張れました」
ダミヤンが息を呑んだ。
仮面の奥の瞳が揺れ、しばらく言葉を失っている。
やがて彼は、ゆっくりと右手を持ち上げた。その指先が、銀の仮面の縁へ触れる。
「ダミヤン様……?」
「あなたが、そこまで勇気を出してくださったのです。それなのに、私だけが素顔を隠したままでは……不公平ですね」
そう言って、仮面に手を添えた。その指先は小刻みに震えていた。
仮面を外そうとして、指先は何度か動いては止まり、また動いては止まる。
外したい。けれど、外せない。そんな葛藤が痛いほど伝わってきた。
「ダミヤン様、無理をしないでください」
私はそっと首を横に振り、その震える手に自分の手を重ねた。
「ですが……」
「私が会いたいと思ったのは、あの夜、緊張していた私に優しく声を掛けてくださったあなたです。手紙でも、いつも温かい言葉を掛けてくださいました」
その一言に、彼の瞳が揺れる。
「だから、急がなくても大丈夫です……。時間は、これからいくらでもあります」
一呼吸置いて、穏やかに続ける。
「いつか、ダミヤン様が『見せてもいい』と思えた、その日に見せてください」
「……」
「その日まで、私は待っています」
その日は今日じゃなくていい。半年でも、一年後でも。
そしていつの日か、ダミヤン様が自ら仮面を外し、私が何も恐れずに笑える日が来たなら――その時は。





