13話 小さな恋のメロディ
クラリッサのこと。ライバルサロンのこと。そして、ジゼルのこと。
気に掛かることは山ほどあった。
クラリッサには何度も面会を願う手紙を送ったが、返ってくるのは丁重な断りの返事ばかり。ライバルサロンについても調べ続けているものの、その実態は巧妙に隠されていて、決定的な証拠どころか尻尾すら掴めない。
焦りばかりが積っていき、思うように事は進まなかった。
それでも、そんな停滞した日々の中で、一つだけ確かな希望があった。
アンネの笑顔が、日に日に増えていたことだ。
最初は人目を避けるように俯いていた彼女も、今ではサロンへ来るたびに穏やかな笑みを浮かべるようになっていた。
「エリザベート様、今日は新しい髪飾りをつけてみたんです……」
そう言って少し照れくさそうに髪を揺らすアンネは、初めて出会った頃とはまるで別人だった。
あの頃は肌を隠そうと、重たい前髪を垂らし、両頬まで覆うように髪を下ろしていた。それが今では、側面の髪を可愛らしくみつあみに結ってお洒落を楽しんでいる。
肌の調子が少しずつ良くなってきたことも、きっかけのひとつだろう。
けれど、それ以上に大きかったのは、彼女の心の変化に違いない。
鏡を見るたび自分を責め、誰よりも自分自身を嫌っていた少女が、少しずつ「今の自分も悪くない」と思えるようになっている。その変化こそが、彼女を何よりも輝かせていた。
「まあ、素敵ね。その髪型によく似合ってるわ」
「本当ですか? 侍女に勧められたんですけど……以前の私なら、こんな髪型できませんでした」
「ええ。その髪型も素敵だけれど、それ以上に、今のあなたの笑顔によく似合っているわ」
……きっと、先日の仮面舞踏会での出会いも、その一歩を後押ししてくれたのだろう。
頬をほんのり染めながら髪飾りに触れるその仕草は、年頃の少女らしい愛らしさに満ちていた。
***
けれど、そのアンネが今日はどこか元気がない。
先ほどから何度も小さな溜め息をつき、どこか上の空で窓の外を眺めていた。
「どうしたの? 何か悩み事でもあるの?」
ぴくりと肩が震える。
図星らしい。
「い、いえ……」
「そう?」
「そ、その……」
言い淀む様子を見て、私は背もたれに身体を預けた。こういう時は急かしてはいけない。本人が話したくなるまで待つのが一番だ。
しばらく沈黙が続いたが、アンネは観念したように口を開いた。
「あ、会いたい人がいるんです……」
私は思わず微笑んだ。
なるほど、そういうことね。
「仮面舞踏会の彼?」
アンネの顔が一瞬で真っ赤になった。
「な、なななっ!」
「違うの?」
「違いませんけど……!」
違わないらしい。私は笑いを堪えた。
あの日以来、アンネは舞踏会で出会った彼と文通を続けているという。互いに素顔は知らないまま。
彼の名はダミヤン。子爵家の令息だそうだ。
それでも恋というものは不思議なものだ。相手の顔を知らなくても、言葉を交わし、心を通わせるうちに、少しずつ想いは育っていく。
「それで?」
私が促すと、アンネは膝の上で指を絡めた。
「会いたいんです」
「ええ」
「でも……会いたくないんです」
私は瞬きをした。
なかなか難しい話である。
「どちらが本心なの?」
「両方とも本当の気持ち、です……」
今にも泣き出しそうな声だった。
「会いたくて……。でも、会うのが怖いんです……」
私はふっと笑った。
「好きになったのね」
アンネが俯く。その反応だけで十分だった。
以前なら考えられなかったことだ。
他人の視線ばかり気にしていた少女が、今は誰かを想っている。それ自体は喜ばしい。
「彼は優しいんです」
ぽつりとアンネが言った。
「私の話を楽し気に聞いてくれました。花の話も、本の話も」
その表情は恋する少女そのものだった。
「私が花が好きだと書いたら、お庭で咲いた花のことを教えてくださったり、読んだ本の感想を送ってくださったり……」
そこまで話して、言葉が途切れる。
そして。
「だから怖いんです」
か細い声が漏れた。
私は何も言わず、続きを待った。
「もし顔を見られたら……嫌われるんじゃないかって」
静かな部屋にその言葉だけが落ちた。
「……アンネ」
私は名前を呼ぶ。
彼女がゆっくり顔を上げた。
「貴女は彼のどこが好きなの?」
「え?」
「爵位?」
「ち、違います……」
「顔?」
「そ、それも違います……。見たこともありませんし……」
「そうよね」
私は微笑んだ。
アンネは少し考えこんでから、小さく答える。
「優しいところ……です」
「ええ、そうね」
私は頷いた。
「なら、彼も同じ気持ちかもしれないわ」
アンネが息を呑む。
「そんなこと……」
「どうしてないと言い切れるの?」
返事はなかった。自信がないのだろう。
でも、それは仕方のないことだった。長い間、自分を嫌い続けてきたのだから。
「貴女は、彼と文通を続けていて楽しかった?」
「……はい、勿論。……楽しかったでっす」
「彼の手紙が届くのを楽しみにしていた?」
「はい。毎日……待ち遠しかったです」
「彼も、貴女へ手紙を書く時間を楽しんでいたのではないかしら」
「え……」
アンネがきょとんとする。
「返事を書く義務なんてないのよ。それでも彼は、何通も貴女へ手紙を書いてくれたのでしょう? きっと、貴女と話す時間が楽しかったからよ」
「でも……それなら、どうして……。彼から会いたいと言ってくれないのでしょう」
アンネは不安そうに視線を落とした。
「私のこと、本気ではないのかもしれません……」
私は小さくうーんと唸る。
「そうとは限らないわ。アンネだって、彼に会いたいのに、怖くて言い出せないのでしょう? ……だったら、彼も同じかもしれないじゃない」
アンネは目を丸くした。
「男性だって、恋をすれば不安になるものよ」
「でも……」
「もし断られたら、嫌われたら。――そう考えて、一歩を踏み出せなくなることだってあるわ」
アンネは驚いたような表情を浮かべる。
今まで、そんな可能性を考えたこともなかったのだろう。
「貴女は彼の素顔を知らない」
「はい」
「それは彼も同じよ」
私は穏やかに微笑んだ。
「もしかしたら彼も、同じように悩みながら手紙を書いていたのかも。彼だって、仮面の向こうにいる貴女に会うのは怖いのかもしれないわ」
しばらく沈黙が流れた。
やがてアンネは、どこか照れくさそうに笑う。
「そう……でしょうか」
「ええ」
私は力強く頷いた。
「恋は、一人でするものではないもの」
アンネの表情が少しだけ和らいだ。
「でも、どちらも待っているだけでは、何も始まらない。だから、もし恋を初めてみたいなら……今度は貴女から一歩踏み出してみたらどうかしら」
アンネの瞳に涙が浮かぶ。
「もし嫌われたら……?」
震える声。私は少しだけ笑った。
「その時は私が慰めてあげる」
「エリザベート様……」
「でも案外、貴女が思っているほど悪い結果にはならないかもしれないわよ」
恋する少女は、自分の欠点ばかり見てしまう。
それに傍から見れば、アンネは十分魅力的だった。優しくて、真面目で、一生懸命。そんな女性だ。もしそれを見抜けない男なら、こちらから願い下げよ。
アンネはしばらく黙っていた。
そして、ぎゅっと拳を握る。
「……会ってみたいと、私から言ってみます」
小さい声だった。けれど確かな決意が込められていた。
私は満足そうに頷く。
「そう。頑張ってね」
――きっと、もう大丈夫。
あれほど自分に自信を持てなかった少女は、ようやく自分の意思で一歩を踏み出そうとしている。
恋が実るかどうかは分からない。
それでも、自分の想いから逃げずに前を向けたことが、何よりの成長だった。
私はアンネの背中を見送りながら、静かに目を細めた。
「けれど、ダミヤン様ね……」
ふと、その名前を口にする。
「どこの夜会でもお見かけしたことがないけれど、どんな方なのかしら……」
アンネの話を聞く限りでは、誠実で心優しい人物なのだろう。
少し会ってみたい気もする。
「アンネ様のお相手って、ダミヤン様なのですか!?」
後ろで話を聞いていたリリィが、目を丸くして声を上げた。
「ええ、そうだけど……。そんなに驚くこと?」
「い、いえ! ダミヤン様は、とても素敵な男性だと聞いています。ただ……」
リリィは言葉を濁した。
「ある時から、人前に姿を見せなくなってしまったそうなんです」
「ある時から?」
私は思わず聞き返す。
「ええ。でも、詳しいことは私も知らなくて……」
リリィも首を横に振るばかりだった。
……何があったと言うのかしら。
そして、アンネがダミヤンに会いに行く当日が来た。
朝からどうにも落ち着かなかった。
書類に目を通しても内容が頭に入らず、まるで私まで初恋を見守る姉にでもなったようだった。
暫くの間、2日に1回更新予定です。





