12話 仮面舞踏会Ⅱ
アンネは青年に手を引かれ、ゆっくりと踊りの輪へ加わっていった。
最初はぎこちなく足を運んでいたアンネだったが、やがて二人のステップは音楽へ自然に溶け込み、彼女の口元には柔らかな笑みが咲いていた。
「ふふ……良かったわ」
少し離れた場所からその様子を見守りながら、私は自然と頬を緩める。
あの子はずっと、自分の容姿ばかりを気にして生きてきた。
顔ではなく、人柄を見てもらえる良い機会だ。この舞踏会に来て、正解だったのかもしれない。
そんなことを考えながら、給仕から受け取った果実酒をそっと口へ運ぶ。
甘酸っぱい余韻が舌に残る。
「今宵は素敵な夜ですね、レディ」
不意に届いた、落ち着いた、それでいてよく通る声。同時に、白い手袋に包まれた手が、私の前へすっと差し出された。
私はゆっくりと顔を上げる。
「あら……」
「一曲、お相手願えますか」
目の前に立っていたのは、長身ですらりとした体躯の青年だった。肩で切り揃えられた濃い茶色の髪に、仮面の隙間から覗く紫色の瞳。端正な顔立ちは半分ほど仮面に隠れているにもかかわらず、その気品は隠しきれない。
濃紺の燕尾服を見事に着こなし、礼をする所作一つとっても非の打ちどころがない。
まさに、絵画から抜け出してきたような理想の貴公子。
けれど――。
「……ええ、是非」
飲み切ったワイングラスを給仕の預け、差し出された手に自分の手を重ねた。指先が触れ合った途端、小さな違和感を覚えた。
その立ち姿、スマートな誘い方。どれも申し分ない筈なのに。
「では、参りましょう」
青年は手を引いて、優しく私をフロアの中央へ導く。
ちょうど新しい曲が始まり、優雅なワルツの旋律が会場へと流れ出した。流れるようなリードで、腰に添えられた指先の力加減は驚くほど繊細だった。
その心地よいリードに身を委ねながら、私はふと口を開いた。
「こういう場所には慣れていらっしゃるのですね」
「そう見えますか?」
「ええ。少しも緊張しているようには見えませんもの」
私は相手の黒い仮面を見つめた。
端正な顔立ちは覆い隠され、その表情を読み取ることはできない。
それでも胸の奥に引っ掛かる違和感だけは、踊るほどにはっきりと輪郭を帯びていく。
「実は、その逆ですよ」
「え?」
「こんなにもお美しいレディと踊るのははじめてですから」
冗談めかした口調なのに、不思議と軽薄さは感じられない。
「ふふ、お上手ね」
「嫌だな、本心ですよ」
音楽がゆるやかな旋律へと移り変わる。
シャンデリアの光が幾重にも煌めき、私たちはその中をゆっくりと旋回する。青年が一歩踏み込めば、私も一歩寄り添う。
青年が私の方へわずかに身を寄せ、小さく笑った。呼吸まで重なるような絶妙な距離に、思わず鼓動が早まった。
「美しいレディ」
低く甘い声が耳元へ落ちる。
「どうか、お名前を教えていただけませんか?」
「……仮面舞踏会で、名前を尋ねるなんて無粋よ」
この夜は、身分も名前も忘れて楽しむためのもの。正体を詮索するのは暗黙の禁忌だった。
「それに――」
私は相手をじっと見つめる。
「あなた、女性でしょう?」
一瞬だけ、相手の動きが止まる。
けれど次の瞬間には、くすりと喉を鳴らして笑い出した。
「……参ったな。見抜かれるとは思わなかった」
「それなのに、私を口説こうなんて冗談が過ぎるわ」
「よく分かったね。どこで分かったの?」
私は繋いだ手へ視線を落とす。
「手よ。指先はしなやかで、男性特有の節ばった硬さがないもの」
私は仮面の下へそっと視線を滑らせた。
顎から首筋へ続く肌は、きめ細かく、吸い込まれそうなほどなめらかだった。
「それに肌ね。どれだけ手入れをしていても、男性なら髭を剃った跡が残るも筈よ。でも、あなたの肌にはそれがまったくない」
それに、背の高さも。もちろん元々長身なのだろうけれど、おそらく靴の中に仕込みをしているのだろう。
青年、いえ。女性は楽しげに笑った。
「ふっ、参ったな。そこまで見抜かれるとは思わなかった」
仮面の奥で紫の瞳が愉快そうに細められる。
「お目が高い、王都一の美容サロンを経営してるだけあるね。流石だ、エリザベート夫人」
その名を呼ばれた瞬間、心臓がどくりと大きく脈打った。
「え……?」
思ず相手を見上げる。
仮面の奥から覗く瞳は、まるでこちらの反応を楽しんでいるようだった。
「どうして……私だと?」
今夜は誰もが仮面を着け、素顔も身分も隠している。
それなのに、どうしてこの人は私だと分かったのだろう。
目の前の女性は肩をすくめ、楽しげに微笑んだ。
「噂は以前から聞いていたからね」
そう言って、私の姿をゆっくりと見渡す。
「その豊かな金髪。仮面から覗く宝石のようなルビーの瞳。そして何より、人目を惹きつけるその存在感。仮面で顔を隠したくらいでは、あんたの美しさまでは隠せないよ」
不意打ちのような賛辞に、頬へ熱が集まるのを感じた。
いまだ褒められることには、まだ慣れていない動揺を悟られまいと、私は小さく息を整えた。
「……お見事ね」
ようやくそれだけ返すと、男装の麗人は優雅に一礼した。
「それだけ、あんたの美しさが際立っているということさ。かつて『肥えて醜い悪役令嬢』と陰口を叩かれていた頃の面影なんて、もうどこにもない」
「それは……褒め言葉として受け取っていいのかしら? ありがとう」
私が微笑むと、彼女もまた静かに笑みを返す。
しかし、その笑みは次の瞬間、どこか意味ありげなものへと変わった。
「本当に……」
ぽつりと零れた呟きは、私へ向けた言葉というより、まるで独り言のようだった。
「本来なら、あんたはこんなにも美しい姿になっているはずがないのに……」
「――え?」
思わずステップが乱れそうになる。
その一言には、単なる皮肉や世辞では片付けられない響きがあった。
まるで、私の"本来の運命"を知っているかのような……。
私は相手をまっすぐ見据える。
「……あなた、一体何者なの?」
すると彼女は肩を揺らし、小さく笑った。
「ふふっ。あんたは私の事を知ってるはずだよ」
「……?」
首を傾げる私を見つめ、仮面の奥の笑みがさらに深まる。
「改めてご挨拶を」
胸に片手を当て、静かに腰を折る。その所作は気負いがなく、それでいて周囲の視線を惹きつける気品に満ちていた。
「私は、ヴィクトリアサロンのオーナー……ジゼル・ローゼンベルクと申します」
「ヴィクトリアサロンのオーナー……ですって!?」
ヴィクトリアサロン。
ここ最近、王都で急速に勢力を伸ばしている美容サロン。
私の店からスタッフを引き抜き、人気商品の粗悪な模倣品を市場へ流し、さらには身体を壊しかねない危険な痩せ薬まで販売している、あの悪名高いサロンだ。
まさか、そのオーナーが目の前にいるなんて。
驚きを隠せない私を見て、ジゼルは楽しそうに目を細めた。
「ええ。あんたも随分と熱心に私のことを調べてくれたようだね」
そう囁く声には、挑発するような愉悦が滲んでいる。
「だから今夜は、こちらから会いに来たんだよ。――エリザベート」
ジゼルは口元に笑みを浮かべたまま、ゆったりと私をリードする。
周囲から見れば、親しげに談笑しながら踊る二人にしか見えないだろう。
「……ご挨拶にしては、随分と物騒ね」
「そうかな?」
ジゼルは肩をすくめる。
「これでもあんたには感謝してるんだ」
「……感謝?」
「あんたが女性たちに美しくなる喜びを教えて、美容という市場をここまで育ててくれたからね。あとは……、その市場を私がいただくだけだ」
大胆にもそう言い放つ。
私からすべてを奪い尽くすという、堂々たる宣戦布告だった。
「残念だけれど、それは叶わないわ」
「どうして?」
「健康を犠牲にした美しさを、私は認めないもの。貴方のサロンを、私は認めないわ!」
その瞬間、最後の旋律がホールへ静かに響き渡る。
余韻を残しながら音楽が途切れ、私たちは示し合わせたように同時に一礼した。
重ねていた手がゆっくりと離れていく、その刹那。
ジゼルは口元に愉快そうな笑みを浮かべる。
「いいね。その自信。奪い甲斐があるもんだ」
「その宣戦布告、受けてたつわ」
私は一歩も引かず、まっすぐに言い返した。
――ヴィクトリアサロン。
この女性こそが、私の前に立ちはだかる最大の敵。
ならば、逃げる理由はない。
正々堂々と、本物の「美」で勝負してみせる。
私の決意を見透かしたように、ジゼルは満足げに口角を吊り上げた。
「その言葉、忘れないでね」
くるりと身を翻し、人混みへ溶け込むように歩き出す。
「次に会う頃には、王都で一番の美容サロンはヴィクトリアになっている筈だよ」
そう言い残し、ジゼルは人混みの中へと消えていった。
「あ、待って!」
ライバルサロンのオーナーが登場です!
明日も更新予定です。





