SIDE アンネⅢ
青年に手を取られた瞬間、心臓が喉元までせり上がった気がした。
ど、どうしよう……。
足が震える。手も冷たい。こんな私が、誰かと踊るなんて。
青年に導かれるまま、踊りの輪へ足を踏み入れる。大広間の中央では、色とりどりの仮面をつけた紳士淑女たちが優雅な旋律に合わせて舞っていた。
私は恐る恐る青年を見上げる。
白色の仮面に隠れて素顔はよく見えない。それでも穏やかに細められた瞳だけは、どこまでも優しかった。
「あの……」
声を掛けようとしても、その先の言葉が続かない。
青年はそんな私を急かすことなく、ゆっくりと歩調を合わせてくれる。
「緊張されていますか?」
「え……」
「肩に力が入っているようですから」
言われて初めて、自分の身体が強張っていることに気づいた。
「す、すみません……」
謝ると、青年は小さく笑う。
「謝る必要はありませんよ。私も同じですから」
「えっ」
「ダンスするのは久しぶりなので、緊張しています」
その言葉に、少しだけ肩の力が抜けた。
曲に合わせて一歩、また一歩。
青年は私の歩幅に合わせステップを踏み、自然とリードしてくれる。今までの誰よりも踊りやすかった。
「お上手ですね」
「ち、違います。あなたが上手にリードしてくださっているからで……」
「それも立派な才能ですよ」
優しい言葉に、胸の奥がじんわりと温かくなる。
ふと、私は仮面へ手を添えた。
この仮面の下には、何度も鏡の前でため息をついた顔がある。
赤く腫れたニキビを隠そうと髪を下ろし、化粧を重ね、人前ではなるべく俯いて過ごしてきた。社交界では、その肌を見られるのが怖くて、誰かと正面から目を合わせることさえできなかった。
けれど今、目の前の青年は私の顔を見ても何も言わない。嫌そうな表情を浮かべることも、視線を逸らすこともない。まるで最初から、私のニキビなど気にも留めていないかのように。
私は恐る恐る周囲へ目を向けた。
きらびやかなホールでは、誰もがそれぞれの相手と笑い合い、優雅に踊り、談笑に花を咲かせている。誰一人として、私を見て笑う者はいなかった。
本当に……誰も私を気にしていないの?
そう思った瞬間、自然と唇がほころぶ。ようやく純粋に、このひとときを楽しめるような気がした。
「やっと笑ってくださいましたね」
青年が嬉しそうに微笑む。
「あ……」
自分が笑っていたことに気づき、私は照れくささに頬を染めて俯いた。
気づけば、さっきまで震えていた足はもう止まっている。
不安に縛られていた身体は、いつの間にか音楽へ身を委ね、軽やかにステップを踏んでいた。
やがて曲が静かに終わりを迎える。
私たちは同時に一礼し、重ねていた手がゆっくりと離れた。その温もりが指先から消えていくのが、不思議なくらい名残惜しかった。ほんの数分前まで、見知らぬ人だったはずなのに。
離れた手を思わず見つめていると、青年も同じように自分の手へ視線を落とし、小さく微笑んだ。
その表情は、どこか私と同じ気持ちを抱いているようにも見えた。
「ダンスにお付き合いくださり、ありがとうございました」
「こちらこそ……ありがとうございました」
胸の前でスカートをつまみ、私はもう一度小さく頭を下げる。
踊る前の私は、早くこの場から逃げ出したいとしか考えていなかった。けれど今は、この舞踏会に来てよかったと思っていた。それどころか、この場所に一秒でも長くとどまりたいと思っていた。
「少しは緊張がほぐれましたか?」
青年が柔らかく問いかける。
「は、はい……おかげさまで」
素直に答えると、青年はどこか安心したように目を細めた。
「それならよかった。実は、最初から少し気になっていたんです」
「え……?」
思わず首を傾げる。
「会場に入られた時から、とても不安そうな感じでしたから」
確かに。エリザベート様の後ろに隠れていた私ははた目からはそう見えただろう。
恥ずかしさに頬が熱くなり、私は曖昧に笑う。
「その、少し……人の視線が怖くて」
正直に口にすると、青年は意外そうな顔も、同情するような顔もしなかった。
ただ、静かに頷くだけだった。
「……分かります」
その一言に、私は思わず顔を上げる。
「私も、人の視線を気にしてしまう性分なんです」
「え……でも、あなたはそんなふうには見えません」
ダンスの最中も、堂々としていて、誰より落ち着いて見えた。
そう告げると、青年は少しだけ困ったように笑う。
「そうですか? きっと、今夜は仮面があるから……いつもより大胆に振舞えているのでしょう」
ふっと視線を会場へ向ける。大勢の人々が思い思いに談笑していた。
「けど、普段は……人混みの中にいると、つい考えてしまうんですよ。『誰かがこちらを見ているんじゃないか』『変に思われていないだろうか』って」
その言葉に、胸がどきりとした。
それは、私がずっと心の中で繰り返していたこと、そのものだった。
「だからでしょうね」
青年は小さく笑う。
「あなたを見た時、何となく分かったんです」
「私が……?」
「ええ。同じだ、と」
その言葉に、私は目を瞬かせる。
「人の目が気になって、肩に力が入ってしまうし……笑いたくても笑えない。だから、余計なお世話かもしれませんが、ダンスにお誘いしました」
青年は照れたように微笑む。
「誰かと話したり、踊ったりしている方が、気が紛れることもあるでしょう」
私は思わず笑みを零した。
「……はい、その通りでした」
踊り始めてからの私は、自分の肌ではなく、音楽とステップに意識を向けていた。
気づけば、周囲の視線を忘れていたのだ。
「よかった」
青年は心から安堵したように微笑む。
「不思議ですよね。同じことで悩んでいる人がいると分かるだけで、少しだけ心が軽くなる」
その言葉に、私は何度も頷いた。その通りだと思ったから。
私はずっと、自分だけが人の目を恐れているのだと思っていたけど、そうじゃなかった。仲間がいると分かって心強く思った。
「おっと、次のダンスの邪魔になってしまいますね。あちらへ行きましょうか」
「あ、はい……!」
次の曲が流れ始めると、待ちかねていたように新たな組がフロアへ歩み出る。私たちは人の流れを避けるように、会場の隅にある大理石の柱のそばへ移動した。
人だかりから少し離れたそこには、人々の笑い声や談笑も遠ざかり、楽団が奏でる優雅な旋律だけが静かに流れていた。喧騒から解放されたようで、私はほっと息をつく。
青年は壁にもたれかかることもなく、私が緊張しないよう程よい距離を保って立ってくれた。そのさりげない気遣いが、なんだか嬉しかった。
それから私たちは、取り留めのない話をした。
好きな季節や、美しいと思った景色のこと。最近読んだ本や、子どもの頃に失敗した思い出まで。
どれも他愛ない話ばかりだったのに、会話は途切れなかった。
青年は聞き上手だった。私が言葉に詰まっても急かさず、優しく相槌を打ってくれる。その安心できる空気に包まれているうちに、気づけば私は自然と笑っていた。
「アンネ嬢は? 最近読まれた本はありますか?」
「ええと、……恋愛小説を読みました。主人公が勘違いばかりしていて、思わず笑ってしまいました」
「へえ、勘違いですか」
「ええ。周りはみんな知っているのに、本人だけ気づかないんです」
「それは読者のほうがやきもきしそうですね」
「ふふっ……。本当にそうでした」
こんなふうに初対面の男性と話せる日が来るなんて、少し前までの私なら想像もできなかった。
青年もまた、私が笑うたびに嬉しそうに目を細める。
その優しい笑顔を見ていると、胸の奥がほんのりと温かくなるのだった。
──もっと、この人と話していたい。
そんな願いが、ごく自然に心へ芽生えていた。
新しく短編作品を書きました!
『愛することはない? では、お友達からよろしくお願いします!』
ハッピーエンドな物語になります。もし宜しければ、是非。
引き続き、明日も更新予定です!





