11話 仮面舞踏会
アンネがサロンへ通い始めて、ひと月ほどが経った。
最初に訪れた頃と比べれば、その肌は見違えるほど落ち着いている。
頬一面を覆っていた痛々しい赤みは薄れ、腫れもほとんど引いた。炎症で熱を帯びていた肌は、ようやく本来の色を取り戻し始めている。
とはいえ、完治にはまだ程遠い。肌の治療というものは、一朝一夕で終わるものではない。
原因の特定は難しいし、傷ついた肌の機能が回復するまでには、根気強い治療と正しい手入れを続ける必要がある。
それでも、鏡に映る自分の肌が少しずつ変わっていくことは、アンネにとって何よりの希望だったのだろう。
「ちゃんと治ってきてるみたい……」
アンネは安心したように笑った。
「良かった……。実は、あのサロンで別の施術のモニターも勧められたんです。でも、受けなくて本当に良かったです……」
「別の施術?」
首を傾げると、アンネは思い出すように答えた。
「なんでも酸と電気で皮膚を一度剥がして、新しい肌に生まれ変わらせる最新の美容法だそうです。ピーリング……? とかいって、ニキビ跡も綺麗に消えるって……」
私は思わず言葉を失った。
「ピーリングですって……?」
前世にも、皮膚を薬剤で剥離させる治療法は存在していた。
けれど、それは医学が発達した時代だからこそ成り立っていたものだ。薬剤を厳密に管理し、衛生環境の整った医療機関で、医師の監督のもと慎重に行われる治療だった。
それを、この世界で……?
背筋に冷たいものが走る。
「消毒は? 施術器具は清潔に管理されているの? 薬剤の濃度は誰が確認しているのかしら……」
思わず、矢継ぎ早に問いかけてしまう。
アンネは困ったように肩をすくめた。
「ご、ごめんなさい……。難しいことは、よく分からなくて……」
「いいえ、あなたが謝ることじゃないわ」
私は小さく首を振った。
「でも、受けなくて本当に良かった。モニターということは、まだ安全性も十分に確立されていないのでしょう」
下手をすれば、肌を綺麗にするどころか、一生消えない傷痕が残るかもしれない。
それだけではない。傷口から細菌が入り込めば重い感染症を引き起こし、最悪の場合、命を落とす危険すらある。
私はアンネがその施術を受けなかったことに、心の底から安堵した。
……それにしても。
ピーリングに、蜂蜜を使った美容液。さらには、飲むだけで痩せられるというダイエット薬。
どれも、この世界では耳にしない発想ばかりだ。
偶然……なのかしら?
前世の知識を持つ私だから知っている美容法が、次々とこの世界へ現れている。蜂蜜を肌に塗る美容方法なんて、前世ではSNSで流行ってたわ。もちろん、誰かが独自に辿り着いた可能性もあるけれど……。
一つや二つならともかく、こうも重なると偶然とは思えなくなってくる。
まさか……ね。
一瞬、脳裏をよぎった考えを私は振り払う。証拠は何もない、ただの思い過ごしかもしれないのだから。
それはそれとして、アンネを苦しめているのは肌荒れだけではないようだった。
「……そろそろ、社交界に出ろと言われてまして……」
その日の診察を終えた頃、アンネは意を決したように話しを切り出した。
無意識に前髪を触り、肌を隠そうとしていたので、私は肌に良くないわと注意した。「あ……」と慌てて指を離す。
「私、まだ婚約者がいないんです。相手を見つける為に夜会に出ろって両親に言われてるんですけど、なかなか勇気が出なくて……」
「そうなのね」
「皆、私の顔を見ている気がして……」
私は頷いた。気持ちは痛いほど分かる。
太っていた頃の私は、社交界に出るたびに周囲の視線を気にしていた。笑われているのではないか、陰口を叩かれているのではないかと気にして、夜会はちっとも楽しめなかった。
私は唇に指先を当て、少し考えてから口を開いた。
「……そうね。なら、仮面舞踏会はどう?」
「……え?」
アンネがぱちぱちと目を瞬く。
「今度、侯爵家主催の仮面舞踏会が開かれるらしいの。仮面を着けるから、普通の夜会よりは人の視線も気になりにくいんじゃないかしら」
「確かに……」
私の提案にアンネは戸惑いながらも興味を示す。
少なくとも即座に「無理です」とは否定しなかった。
「なら、行ってみましょう」
「でも……」
不安そうに揺れる瞳。
そんな彼女の迷いを包み込むように、私は優しく微笑んだ。
「一人が怖いなら、私が一緒に行くわ」
その一言に、アンネは目を丸くした。
「えっ、エリザベート様が……?」
「ええ。私も一緒なら怖くないと思ったのだけど……どうかしら?」
しばらく私を見つめていたアンネは、恐る恐る頷いた。
「……は、はい。是非、一緒に行ってください……!」
まるで怯えた小動物のようだった。けれど、その瞳には希望が見え隠れして、きらりと光った。
***
舞踏会当日。王都の夜は煌びやかな光に包まれていた。
会場となる侯爵家の屋敷へ馬車が滑り込む。眩い光に照らされた壮麗な館の前には、次々と豪奢な馬車が到着し、色鮮やかなドレスや礼装に身を包んだ貴族たちが階段を上っていく。
私たちも馬車を降り、それに続いた。
隣では、アンネが落ち着かない様子で辺りを見回している。手袋越しにも分かるほど、私の腕を掴む指先に力が入っていた。
「だ、大丈夫でしょうか……」
「何が?」
「私の肌でまた影口を言われたら……」
私は思わず苦笑した。
「仮面を着けてるのに?」
「あ……」
そうだった、と言いたげに口を閉じる。
今夜の彼女は、淡い水色のドレスを身にまとい、繊細な銀細工が施された仮面で素顔を隠している。
白銀の刺繍が光を受けてきらめき、すらりとした肢体をいっそう美しく引き立てていた。その姿は、誰もがはっとさせられるほど。
本人だけが、そのことに気づいていない。
私はそんな彼女を微笑ましく見つめながら、自らの赤いドレスの裾をそっと整えた。深紅の生地に合わせた黒と金の仮面が、いつもの私とは少し違う雰囲気を演出している。
会場へ足を踏み入れると、優雅な音楽が耳をくすぐった。
王都でも指折りの広さを誇る大広間は、幾千ものシャンデリアに照らされ、昼間のような明るさに満ちている。磨き上げられた大理石の床には黄金色の光が揺れ、色とりどりの仮面を着けた紳士淑女たちが会場を埋め尽くしていた。
アンネは私の隣にぴったりと寄り添っていた。
「エリザベート様……」
「大丈夫よ。私がついているわ」
私は軽く彼女の背中を押した。
「ほら、誰もあなたの肌なんて気にしていないでしょう」
実際、そのとおりだった。皆、仮面を着けているのだから、素顔までは分からない。
そう言うと、アンネの表情も少しだけ和らぐ。
「そ、そうですね!」
私たちはしばらく仮面舞踏会の華やかな雰囲気を楽しんでいた。
そのときだった。
「お嬢さん」
耳に心地よい声に振り返ると、一人の青年が立っていた。
背は高く、一八〇センチは優にありそうだ。落ち着いた褐色の髪に、口元には柔らかな笑み。白い仮面が顔立ちを隠しているものの、不思議と威圧感はない。派手ではないが、どこか人を安心させる雰囲気がある青年だった。
「よろしければ一曲いかがですか?」
青年はアンネへ手を差し出した。
アンネは完全に固まっていた。目を白黒させている。
私は思わず笑ってしまう。「ほら、誘われているわよ」とアンネの耳に小声で囁く。
「で、でも……!」
「断る理由がある? 折角来たんだから、楽しんでいらっしゃい」
アンネは私と青年を交互に見た。そして恐る恐る手を伸ばす。
「よろしく……お願いします」
青年が微笑んだ。
「こちらこそ」
二人は踊りの輪へ消えていく。
私はそれを見送りながら、胸を撫で下ろした。どうやらアンネは、最初の一歩は踏み出せたようだった。





