10話 アンネの場合
扉を開けた瞬間、その女性の様子に胸が痛んだ。
年の頃は十代後半だろうか。背筋を伸ばせばすらりと背の高い、スタイルのいい女性だった。それなのに、彼女は肩をすぼめ、身を縮こまらせるように椅子へ腰掛けていた。まるで自分という存在を少しでも小さく、目立たなくしようとしているかのように。
「ア、アンネです。アンネ・グラッセと申します……」
事前に聞いた通り、アンネの悩みは肌の悩みのようだった。
ちらりと窺った様子では、頬や額、顎にかけて赤みを帯びたニキビが広がっているようだ。炎症も見られ、確かに辛そうだった。
けれど何より目を引いたのは、肌そのものではなかった。
人目を気にして怯えるような表情、顔を隠そうとする仕草。傷つけられてきた心の方が、ずっと深刻に見えた。
「実は……ずっと肌のことで悩んでいて……」
話を促せば、アンネは恐る恐る話し始めた。
小さな声だった。まるで怒られないように話す子どものような。
私はそっと微笑む。
「そうなのね」
私は相槌を打つ。話の続きを促すように。急かさず、否定せず。
すると彼女は少しずつ事情を語り始めた。
「前に別のサロンへ行ったんです」
私は内心で小さく息を吐いた。
またか。最近、この手の相談が本当に増えている。
「そこでは蜂蜜が肌に良いって言われて……」
蜂蜜。その単語を聞いた瞬間、私は眉をひそめそうになるのを堪えた。
もちろん、蜂蜜そのものが悪いわけではない。蜂蜜には殺菌効果がありニキビに効く事があるし、人によっては問題なく使える場合もある。
けれど、それが誰にでも合う訳ではない。
肌質によっては刺激となり、かえって症状を悪化させることもある。さらに怖いのは、アレルギー反応を引き起こす可能性があることだ。
それは「経皮感作」と呼ばれる現象で、化粧品に含まれる成分が皮膚から吸収されることで、その食材に対するアレルギーを発症する。前世でも問題になって、ニュースにもなっていた。
それなのに……。
「毎日たっぷり塗れば治るって……」
アンネの声が震えた。
「最初は信じていました。でも赤くなって……痒くなって……。でも、好転反応? だとかで、一時的に赤くなることも聞いていたから、良くなる前兆だと信じて続けてたんです……」
私は隣に座るカミルと視線を交わした。案の定、彼も難しい顔をしている。
都合の悪い症状を『好転反応』で片づけようだなんて、その無責任さに腹の底が冷たくなる。
「気付いたら、前より酷くなっていました。他の人は綺麗になっていたのに……私だけ……」
アンネはぎゅっと膝の上の手を握りしめた。その声には自分を責める色が滲んでいる。
「鏡を見るのも嫌になって……」
私はその声を聞いて、かつての自分を思い出していた。
太っていた頃の、鏡を見るたびにため息を吐いていた私。周囲の視線が怖くて仕方なかった日々。
変わりたいのに変われず、自分を責め続けていた私。
だから分かる。容姿の悩みは、ただの見た目の問題じゃない。少しずつ自信を奪っていき、心を削るのだ。
「……辛かったわね」
自然とその言葉が零れた。アンネが顔を上げる。泣きそうな目だった。
「治したかっただけなのにね」
私の言葉に、彼女の瞳が揺れる。
私は努めて穏やかな声で言葉を続けた。
「あのね、蜂蜜が悪い訳ではないのだけど……。アンネ様のお肌には合わなかった可能性が高いわ」
「ああ、私のせい……ってことですか?」
か細い声だった。
私ははっきりと否定した。
「そんな事はないわ。どんな美容法にも向き不向きがあるの。効果が出る人がいれば、合わない人もいる。それなのに、メリットだけを伝えて、起こりえるリスクを説明しないまま勧めるのは問題よ。少なくとも今のお話を聞く限り、アンネが自分を責める必要はないわ」
その瞬間だった。
アンネ様の目に涙が滲んだのは。きっと長い間、一人で抱え込んでいたのだろう。悩んでいる人ほど、藁にも縋りたくなるものだ。
それを利用して傷つけるなんて――。胸が締め付けられる。
私はそっと微笑んだ。
「……お肌はすぐには変わらないわ」
期待を煽るような嘘はつきたくない。だからこそ、正直に伝える。
「でも、正しい方法で少しずつ良くしていきましょう。焦らなくて大丈夫、一緒に頑張っていきましょう」
アンネは涙を浮かべたまま、小さく頷いた。
その姿を見て、私は決意する。この人を綺麗にするお手伝いをしよう。ニキビだけじゃなくて、傷ついた心も含めて。
ここへ来て良かったと思ってもらえるように、精一杯頑張ろう。
アンネが落ち着いたのを見計らい、カミルが穏やかな口調で声を掛けた。
「それでは、お肌の状態を見せて頂いても宜しいですか?」
アンネの肩がぴくりと揺れる。
コンプレックスである肌を見られることに抵抗があるのだろう。それでも、アンネは勇気を振り絞るように頷いた。
「……はい」
頬を隠していた髪を耳に掛け、ゆっくり顔を上げる。
頬には赤く腫れた炎症性のニキビが広がり、額や顎にも赤みが見える。本人が悩むのも当然だった。
「失礼しますね」
カミルはそう断ってから、慎重に肌の状態を観察し始めた。
「痒みは今もありますか?」
「ええ、実は……今もずっと」
「でしょうね。随分と痒かったでしょう」
アンネは小さく頷いた。
「……治り、ますか?」
不安そうな声だった。
カミルは少し考えてから答えた。
「今のお話を聞く限りでは、蜂蜜による刺激で炎症を起こしている可能性が高いですね。ですから蜂蜜の使用を中止すれば、炎症の症状は徐々に落ち着いていくと思います」
アンネ様の表情がわずかに和らぐ。
「本当ですか?」
「ええ、炎症を抑える薬をお出ししますね」
「ありがとうございます!」
アンネ様はほっとしたように息を吐いた。
カミルの口から告げられた言葉に、その表情はみるみる固まった。
「あとは、化粧も治療期間はしないでください」
「え! そんな!」
アンネの顔がさっと青ざめる。
「そんな……化粧をせずに人前に出る事なんて出来ません……!」
その声は悲鳴に近かった。
カミルは落ち着いた様子で説明を続ける。
「ですが、治療の為なのです。ニキビは清潔なことが最近になって分かってきていて……」
「でも! でも……こんな顔で過ごせないわ! 家の中でだって……誰にも見せられない!」
今にも泣きだしそうな声。
彼女にとって化粧は単なる嗜みではなく、傷ついた心を守るための鎧なのだ。それを脱げと言われるのは、裸で人前に立てと言われるのと同様なのだろう。
「アンネ」
私は優しく声を掛けた。
彼女の視線がこちらへ向く。
「今のお肌は怪我をしているような状態なの。綺麗に治したいなら、少しだけ休ませてあげなくてはいけないわ」
私は言葉を選びながら続けた。
「もちろん辛いのは分かる。でもね、私とカミルもアンネのお肌を綺麗にしたいのよ」
「……」
「治すためにも、辛くても休まないといけない時期なの……分かってくれるわね?」
しばらく沈黙が続いた。アンネは俯いたまま、ぎゅっとスカートを握りしめた。
化粧をしないことへの不安、人に見られることへの恐怖。そのどちらとも戦っているのだろう。
私は手を伸ばし、固く握りしめられた手に自分の手を重ねた。
はっとしたように顔を上げるアンネに、安心させるように微笑んだ。
「怖いのね。でも、一人じゃないわ」
治療が上手くいけばいい。けれど、思うようにいかない時もあるだろう。鏡を見て落ち込む日だってあるかもしれない。
けれど、彼女ひとりで抱え込む必要はない。
「私たちもいるもの」
張り詰めていたアンネの表情が、ほんの少しだけ和らいだ。
やがて彼女は小さく頷いた。
「……分かりました。わ、私……頑張ります」
震える声だった。
けれどその言葉には、逃げ出したい気持ちを押し込めて前を向こうとする強さがあった。
私はその小さな勇気が嬉しくて、そっと手を握り返した。
明日も更新予定です!





