5話 クラリッサの場合Ⅱ
「……ねえ」
窓から差し込む夕暮れの光が、彼女の横顔に長い影を落としていた。
覗いた彼女の瞳は昏かった。
「……噂で聞きましたの」
その声音に、私は嫌な予感を覚えた。
クラリッサは唇を湿らせ、続けた。
「“痩せ薬”というものがあるって……」
リリィがぴくりと眉をひそめる。
けれどクラリッサは気づかないまま、私をじっと見ていた。その視線に、私は何故か居心地の悪さを覚える。
「その薬……こちらのサロンでも、販売していませんの? もしかして、エリザベート様もその薬を使ったから、痩せられたんじゃなくて?」
「……いいえ、扱っていないわ。それに飲んでもいないわ」
私は、ゆっくりと首を横に振った。
けれど、クラリッサは納得していないようだった。
「本当に? 飲むだけで痩せられるのなら、その方がずっと楽じゃありませんか……」
「クラリッサ」
私は彼女の言葉を静かに遮った。
「“楽に痩せられる薬”なんてものは、この世に存在しないの」
「けれど、実際に呑んでいる方もいると聞きますわ」
クラリッサはなおも食い下がった。彼女の目はこちらを疑っている。
私は慎重に言葉を選んだ。彼女を否定して傷つけたいわけではないけれど、間違った方向へ進むのは止めたかった。
「……確かに、一時的に体重を落とす薬はあるわ。食欲を異常に抑えたり、身体へ無理な負担をかけたりしてね」
けれど、と私は続ける。
「でも……身体を壊してまで細くなることに、何の意味があるの?」
クラリッサの指先が、小さく震えた。
「意味ならあるわ。美しくさえなれれば……」
私は胸の奥が締め付けられるのを感じた。
彼女の気持ちは嫌というほど分かるから。
誰かに愛されたくて。認められたくて。昔の私もまた、痩せたくて必死だった。けれど、当時の私は……間違えたダイエットの知識のせいで、かえって傷つくばかりだった。
「けれどね、クラリッサ」
私はそっと彼女の手へ触れた。
冷え切ったその手を、包み込むように両手で握る。
どうか伝わってほしい。自分自身を傷つけてまで手に入れる美しさなど、本当の美しさではないのだと。
そんな願いを込めながら、私は言った。
「あなたが壊れてしまったら、意味がないのよ」
クラリッサはしばらく何も答えなかった。やがて、静かに目を伏せる。
「……分かりました」
その返事に、私はほっと胸を撫でおろした。私の気持ちを理解してくれたのだと思った。
儚げに微笑みさえ浮かべて、「私、ちゃんと頑張りますわ」と言って帰っていく姿に、私はひとまず安堵したのだ。
その後もしばらく、彼女は真面目にサロンへ通っていたけれど。
ある日からか、来なくなってしまった。
「……はあ」
私は大きくため息をついた。
リリィが憂いた声で呟く。
「最近、クラリッサ様がいらっしゃいませんね」
「そうね……」
「諦めてしまったのでしょうか」
リリィの問いかけに、私はすぐ返事をすることができなかった。
「ダイエットには本人の意思が大事なの」
私はゆっくりと言葉を選ぶように口を開いた。
「私たちは助言や手助けはできても、本人が続けようと思えなければ、どうにも出来ないもの」
実際、これまでにもダイエットに苦戦した客はいた。
例えば、男爵令嬢のマルグリットだ。
彼女はとにかく運動嫌いで、重たい腰をなかなか上げようとしなかった。食事制限も気づけばなし崩しになり、たった十分のストレッチですら、早々に音を上げてしまう。
あまりの根気のなさに、思わず額へ手を当てたことも一度や二度ではない。
けれど、そんな彼女も最終的にはダイエットに成功した。
きっかけは、講師役だったジャンとの大喧嘩。遠慮なく物を言う彼に、「デブのままだぞ」と言われたマルグリットは激怒したのだ。
『うきぃー誰が変われないですって!』
そこからは半ば意地だった。ジャンに馬鹿にされたままで終われるものかと、彼女は見違えるほど真面目に努力を始めたのである。そして、見事にダイエットを成功させたのだ。
だからこそ。
最初こそ真面目に助言へ耳を傾け、素直にダイエットへ取り組んでいたように見えたクラリッサが、途中で来なくなってしまったことは、私にとってひどく残念だった。
「……どうしたのかしら」
ぽつりと漏らした声に、リリィが小さく眉を寄せる。
「病を患っているのでなければ良いのですが……。そういった噂は聞きませんし、大丈夫だとは思いますけれど」
「そうね……」
私は頷きながらも、胸の奥に沈んだ不安を拭いきれなかった。
何故かしら。嫌な予感が、静かに喉元へ張り付いて離れないような気がした。





