3話 甘い誘惑とその代償
ええ、と私は静かに頷いた。
その言葉を聞いただけで、胸の奥がひどくざわつく。
「最近、若い令嬢たちの間で広まっているらしいの。“飲むだけで食欲がなくなり、みるみる痩せる”……そんな触れ込みで」
「そんな都合の良い薬が、本当に……?」
「あるわけがないでしょう」
ぴしゃりと言い切った自分の声に、リリィが小さく肩を震わせた。
しまった、思った以上に語気が強くなっていたらしい。私はすぐに表情を和らげたものの、報告書に添えた指先には知らぬ間に力が入っていた
「報告によれば、その薬を飲んだ令嬢たちは、確かに急激に体重を落としているらしい……けれど。同時に、激しい眩暈、動悸、不眠、情緒不安定――身体を蝕む症状も次々と現れているそうよ……」
酷い者は食事すら受けつけなくなり、寝台から起き上がれなくなったとも書かれている。
――愚かしい。
健康を削り。
心を壊し。
そうまでして得た“細さ”に、一体どれほどの価値があるというのだろう。
「……許せませんね」
ぽつりと呟いたリリィの声は、怒りよりも痛みに近かった。
私は静かに頷く。
彼女もまた、この歪んだ価値観に苦しめられたひとりだったから。
痩せていることこそが美徳。華奢で儚げであるほど、殿方に愛される。
そんな馬鹿げた価値観が、社交界には根深く蔓延っている。
少しでも太れば陰口を叩かれ、嘲笑される。だから令嬢たちは、自分を追い詰めていくのだ。
食べてはいけない。痩せなければ。美しくならなければ――と。
「リリィ、あなたも……そうだったものね」
私がそっと名を呼ぶと、彼女はかすかに睫毛を震わせた。
今のリリィからは想像がつかないけれど、かつての彼女は拒食症寸前にまで追い詰められていた。
食べ物が喉を通らず、腕は折れそうなほど細くなり、肋骨が浮き出るほど痩せ細っていたのだ。頬はこけ、唇は色を失い。まるで、存在そのものが少しずつ削り取られたようだった。
――私は、あの姿を忘れない。
忘れるものか。だからこそ、同じ苦しみを、これ以上誰にも味わわせたくはなかった。
「エリザベート姉さま……」
リリィが案じるように私を見る。
私は瞼を落とし、それからゆっくりと首を縦に振った。
「……ええ。なんとかしないといけないわね」
無知につけ込み、不安を煽り、若い娘たちの心と身体を食い物にするなんて。そんな行為を見過ごすわけにはいかなかった。
そんなものは“美”ではない。
ただの、醜悪な搾取よ。
「あの、お話し中すみません……」
躊躇いがちにアメリアが声を掛けた。
「そろそろ新規のお客様がお見えになる時間です。ご案内しても宜しいでしょうか?」
悪徳サロンの事は放っておけない。
……とはいえ。今優先すべきものは別にある。まずは、私に助けを求めてここを訪れる女性を救わなければね。
私は息を吐き、気持ちを切り替えた。
「ああ、もうそんな時間なのね。ええ、お通しして」
私が頷くと、アメリアは丁寧に礼をして部屋を下がる。
ほどなくして、ひとりの令嬢が恐る恐る室内へ足を踏み入れた。
年の頃は十代の終わりか、それとも二十歳になったばかり。私と同じくらいの年頃だ。
……その姿には見覚えがあった。
ヒロインであるルチアの取り巻きだった令嬢。かつて肥っていた私を陰でひそひそと笑い、影口を叩いていた一人だ。
しかし、あの頃の自信はどこへやら。濃い緑色のドレスに身を包んでいるものの、その仕草にはどこか自信のなさが滲んでいる。胸元でぎゅっと両手を握り締め、落ち着かないように視線をさまよわせる姿からは、張り詰めた緊張がひしひしと伝わってきた。
そんな彼女を安心させるように、私はできるだけ柔らかな笑みを浮かべた。
「《ラ・ベル・レジスタンス》へようこそ。よく来てくださったわ」
令嬢の肩が、ぴくりと揺れた。
「ここへ来たということは……きっと、何か悩みを抱えているのでしょう?」
私はそっとソファを示す。
「大丈夫。まずは、あなたのお話を聞かせてちょうだい」
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