2話 危険なライバルサロン
白亜の漆喰で仕上げられた外壁に、鮮やかな緑の屋根が映える建物。
ゆるやかなアーチを描く大きな窓は繊細な鉄細工の柵に彩られ、窓辺には季節の花々が咲きこぼれている。なだらかな曲線を描く石段を数段上ると、金文字で店名が刻まれた看板が掲げられていた。
そのサロンの奥にある執務室。
やわらかな陽だまりのなか、私は分厚い報告書を机の上に置き、小さく息を吐いた。
「はあ……どうしたものかしら」
窓辺では白薔薇がそよ風に揺れ、磨き上げられたティーカップからは、淹れたての紅茶が芳醇な香りを漂わせている。
穏やかな午後の空気とは対照的に、私の心に沈んだ重石は、少しも軽くなる気配がなかった。
「浮かない顔ですね。エリザベート様、どうなさったのですか?」
たった今、紅茶を淹れてくれた侍女のアメリアが、心配そうに私の顔を覗き込む。
「働きづめはお身体に毒ですよ? どうぞ紅茶を飲んで、休憩を入れてください」
柔らかな亜麻色の髪を揺らしながら微笑む彼女に、私は苦笑を返した。
「ありがとう……実はね。他にも似たようなサロンが増えてきているの」
「まあ! それは大変ですわ」
執務室のソファで書類を仕分けていたリリィが、ぱちりと目を見開いた。
彼女は夫であるカミルの妹。こうして時間のある日は、サロンの仕事を手伝ってくれている。
「……けれど、それ自体は仕方のないことよ」
私は紅茶を一口含み、小さく息をつく。
「商売というものは、成功すれば必ず模倣されるものだもの」
「ふふっ、それだけエリザベートお姉様のサロンが人気ということですね! 最近では特に、あの“産休”という革新的な制度の導入で、話題になっていますし……」
私はサロンを通じて、女性の立場を向上させるための取り組みを積極的に進めていた。
きっかけは、ヒノモトへの旅だった。そこで出会った、サクラという少女。「ヒノモトの女性の立場を向上させたい」と語っていた彼女の想いに、私は深く心を動かされたのだ。
リューベンハイトでも、女性の社会進出はまだ十分とは言えない。だからこそ、私にも出来ることから始めようと考えた。
その取り組みのひとつが、“産休制度”の導入である。
もしかすると、この制度を取り入れたのは、この国どころか、この世界でも初めてのことかもしれない。
これまでは、女性は妊娠すれば、いや、結婚した時点で仕事を辞めるのが当たり前だった。
けれど、とりわけ平民の家庭では、女性も働いて家計を支えなければ暮らしていけない。だからこそ、安心して出産し、子育てを終えたあとも職場へ戻れる産休制度は、多くの女性たちに歓迎された。
「スタッフの皆さん、とても喜んでいましたよ!」
リリィが、弾んだ声で報告してくれる。
「それなら何よりだわ。皆のやる気につながってくれるなら、導入した甲斐があるもの」
微笑みながら答える。
もちろん、この制度は女性たちのためだけにあるわけではない。
サロンにとっても、大きな利点があった。
ようやく一人前の技術を身につけたスタッフに辞められてしまうのは、大きな損失だ。新たな人材を採用し、一人前に育て上げるまでには、長い時間と多くの費用がかかる。
だからこそ、出産後も安心して復帰できる環境を整えることは、スタッフの安心感につながるだけでなく、サロンの技術力やサービスの質を維持することにもつながるのだ。
「……問題は、その大切なスタッフを他所のサロンに引き抜かれ始めていることなの」
「えっ、引き抜きですか?」
リリィの表情が強張る。
「ええ。うちより高い給金を提示して、移籍を持ちかけているそうよ」
「そんな……」
私は小さく肩を落とした。
スタッフ一人ひとりの働きに見合うだけの給与は支払っているつもりだ。それでも資金力に物を言わせて高額な条件を提示されれば、心が揺らぐ者がいても不思議ではなかった。
とはいえ、仲間だと思っていたスタッフが引き抜かれるのはショックだった。自分の引き留める力不足を痛感する。慕われていると思っていたのだけれど……。
「それに……問題はそれだけではないのよ」
「と、言いますと?」
リリィが首をかしげる。
「……粗悪品を売り出すサロンがあるようなのよ」
理念も覚悟も持たぬまま、ただ流行に乗って美を売り始める者たちが現れ始めた。
それによって、私のサロンの化粧品を形だけ真似をした、安価な化粧品が売り始めたのだ。成分も不確かななのに、『殿方に愛される顔になれる』などと煽る宣伝文句と共に。
それらを見るたび、胸の奥が冷えていく。
かつて誰よりも“他人の価値観”に苦しめられた私だからこそ、分かってしまうのだ。
美は、本来……。誰かに評価されるための鎖ではないのに――。
「それは見過ごせませんね……」
リリィが不安げに眉を寄せる。
私は静かに頷き、机上の報告書へ視線を落とした。
そこには、最近王都で広まり始めた新興サロンの名と、販売している化粧品についての調査結果が並んでいる。
“”
そのサロンは隣国である帝国から進出してきたようだった。
派手な広告。過激な謳い文句。
そして、必要以上に豪奢な装飾を施した化粧品の容器。
――嫌な予感しかしなかった。
「ええ。そもそも……私がサロンを始めたきっかけは、“安全な化粧品”を届けるためだったのに」
ぽつりと零した声は、自分でも驚くほど沈んでいた。
脳裏に蘇るのは、サロンを始める前の記憶。ダイエットの成果で徐々に体重が落ちはじめ、ようやく化粧を楽しもうと思い始めた頃のことだ。
当時、王都では鉛を含んだ白粉が当たり前のように売られていた。
肌を陶器のように白く見せるその化粧は、貴族令嬢たちの嗜みとされていたけれど――その裏で、多くの女性たちが苦しんでいたのだ。
ある女性は、眩暈や吐き気に悩まされ、酷い者は肌は爛れ、髪は抜け落ちた。
それでもなお、美しく見えるために使用をやめられなかった。
誰かに愛されるため。
誰かに選ばれるため。
その願いのためだけに、自らの身体を蝕んでいく。
――まるで、昔の私のように。
「エリザベート姉さま……」
リリィの声音が、そっと痛みに触れる。
私は小さく目を伏せ、それから静かに息を吐いた。
「昔の私は、美しくなければ価値がないと思い込んでいたわ……」
『肥っていて、豚のようだ』と婚約者である殿下に罵られていた私。
痩せなければ。愛されない。だから無理なダイエットで。そうやって、自分を削り続けていた。
けれど、本当に必要だったのは、誰かの理想に近づくことではなかった。
「でも、そうじゃないって気づいたわ」
自分自身を大切にすること。
心と身体を壊してまで得る“美”など、決して美ではないと知ったのだ。
「その内、着飾る事が純粋に楽しくなって……。他の人にも安心して化粧してもらう為に、カミルと一緒に化粧品を開発したのよ」
薬学に長けたカミルは、私のアイデアを形に変えてくれる手伝いをしてくれ、肌への負担を抑えた化粧品を作り上げた。
香油の配合も、保存方法も、何度も失敗を重ねながら改良した。
利益だけを考えるなら、もっと安く、もっと派手なものはいくらでも作れたはずだ。
それでも私たちは、“安心して使えること”だけは決して譲らなかった。
「それなのに。効果ばかりを煽って、成分も不確かな安全かどうかも分からない化粧品を売るだなんて……決して、許せることではないわ」
胸の奥で、静かな怒りが燃えていた。
それはかつて社交界で嘲笑に耐えていた頃の、惨めで苦い想いではない。誰かを守りたいと願う者だけが宿せる、揺るぎない意志の火だった。
「それにね。問題は、化粧品だけじゃないの」
そう、問題は化粧品だけではなかった。
私は一枚の報告書を抜き取り、机の上へ滑らせる。そこには、新興サロンの販売品一覧が記されていた。
リリィは目を走らせ、次の瞬間、はっと息を呑む。
「……“痩せ薬”、ですか?」





